日本共産党「資本論学習運動」の再検討

――マルクス研究と綱領、現実政治的重点のズレ

近年、資本主義の構造的限界が露呈するなかで『資本論』の現代的意義が再評価されており、日本共産党もこれを重視した大規模な学習運動を展開している。資本主義分析としての『資本論』の有効性や、そこから導き出される未来社会の展望が持つ思想的魅力は、今日においても否定し得ないものだ。

しかし、現在の日本共産党が推し進める「資本論学習運動」は、単なる理論的探究の枠を超え、党の将来像の固定化や組織的動員と密接に結びついている。また、党勢後退の客観的な最大の要因を「社会主義・共産主義の問題」としており、その克服策として大きく位置づけている。

この現状には、理論的・政治的、そして組織運営の観点から看過できない重層的な問題が含まれている。

理論的問題:未来社会における「不確定性」の恣意的解釈

マルクスは、未来の社会主義・共産主義社会について詳細な制度設計や青写真を提示しなかった。これは、未来社会とは歴史的条件と人間の主体的実践の中で形成されるべき「開かれたプロセス」であり、あらかじめ固定的に描くことはできないという厳格な理論的立場に基づくものだ。

ところが、現在の党の説明には重大な論理のすり替えが見られる。党は、未来社会の到達像(利潤第一主義からの自由、労働時間の短縮による自由な発達など)については、あたかも自明の歴史的到達点であるかのように確定的に語る。

その一方で、そこに至る具体的な制度設計や移行のプロセスへの疑問や批判に対しては、「マルクスは青写真を描かなかった」という不確定性を理由にして応答を避けてきた。

本来、マルクスが示した不確定性は道筋だけでなく、到達像の具体的内実そのものにも及ぶはずである。例えば「生産手段の社会化」が、具体的に国有なのか、共同組合的な所有なのか、あるいは新たな公的管理(コモン)なのかという議論を棚上げしたまま、その恩恵のみを強調するのは理論的な「一面化」と言わざるを得ない。

不確定性の概念を党の都合に合わせて峻別して用いる姿勢は、理論的な誠実さを欠いている。

政治的問題:2004年綱領と学習重点の「ねじれ」

    日本共産党は2004年綱領において、当面の政治目標を資本主義の枠内での民主主義的改革(対米従属の打破と大企業・財界の横暴な支配の規制)として位置づけている。即時の社会主義移行をめざさず、現実の制度内で段階的発展を図るという「段階的発展観」を明確にしているのだ。

    この立場に立つならば、学習運動の中心は、現代日本資本主義の具体的な構造分析、具体的な政策形成、そして「ルールある経済社会」を構築するための広範な市民との協働に資する内容に置かれるのが自然だ。

    しかし実際には、より遠い将来の社会像や、抽象的な理論整理を中心とした学習が強調されている。この「当面の改革課題」と「遠い将来像の賛美」とのズレは、現状変革を求める広範な市民との間に温度差を生じさせる。現実の政治課題から遊離し、遠い理想論にエネルギーが割かれる現状は、運動の優先順位として大きな疑問を残すものだ。

    組織的問題:開かれた探究から「正解の共有」へ

    さらに看過できないのは、この学習運動が志位和夫氏の著作(いわゆる「三部作」)の購読・学習と組織的に強く結びついている点だ。

    特定の指導部による解釈が「推奨されたテキスト」として全党的に提示され、その読了、理解が組織的目標とされる場合、自由な理論的探究ではなく、党内の思想的統一を図るための「運動的性格」が前面に出てしまう。

    本来、理論学習とは批判や異論、再検討を含む開かれたプロセスであるべきだが、現状は指導部が提示する「正解」をいかに効率よく共有・浸透させるかという、一種の教条化の様相を呈している。

    結論:理論の豊かさを取り戻すために

    結局、『資本論』を持論を浸透させるための権威的根拠に利用するのか、純粋に現代の経済を分析するための重要な手がかりとして扱うのか、そこが問われている。ひいては、日本共産党が何をめざすのか、その存在意義にも関わる問題だ。

    特定の将来像を前提とし、そこへの理解を促すだけの運動は、結果として理論の持つ豊かさと可能性を損なうものである。日本共産党の「資本論学習運動」は、その提示の仕方と運動の組み立てにおいて、現代的な民主主義組織にふさわしい形へと根本的に再検討を要する段階にある。

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