1.問われるのはマルクスの解釈だけではない
日本共産党の綱領一部改定案をめぐり、志位和夫議長は2026年10月12日の第10回中央委員会総会(10中総)での提案報告で、2003年6月の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)における不破哲三議長(当時)の報告に問題点があったと述べた。
7中総報告が、マルクスが『ゴータ綱領批判』で行った共産主義社会の二段階論を「採用しなかった」と退けたことは是正が必要だ、という。志位氏は10月22日の報告会「『ゴータ綱領批判』の『共産主義社会のより高い段階』論について」で、この批判をさらに詳しく展開した。
マルクスの著作を研究し、従来の解釈を検証することは必要だ。新たな知見によって、それまでの理解が訂正されることもあるだろう。しかし、今回問われているのは、単なるマルクス解釈の問題ではない。
7中総報告は、二段階論について解釈を示しただけではなかった。未来社会の青写真を描かないという原則的な立場から、二段階論を党の綱領に採用しないという判断を示したのである。その方針は約7カ月の党内討論を経て、2004年1月の第23回党大会で採択された綱領に反映された。(文末 註※参照)
したがって、今回の改定では、従来のマルクス解釈のどこが問題だったのかという点と、当時の綱領上の判断をなぜ変更する必要があるのかという点を、区別して考えなければならない。志位氏の報告では、この二つが十分に区別されていないのではないか。
以下、分配問題、青写真主義、未来社会における人間の自由、国家権力の問題を順に検討する。最後に、10中総報告で志位氏が紹介した不破氏との会談についても考えたい。
2.分配方式をめぐる批判は成り立つのか
志位氏は10月22日の報告会で、7中総報告が「この二つの段階を生産物の分配の方式で分けるという考えは、『ゴータ綱領批判』の中でマルクス自身が述べていることです」と述べた点を批判した。マルクスは二つの段階それぞれについて包括的な規定づけを行い、それによって段階を区分したうえで、その結果として分配がどうなるかを論じている。分配方式で段階を分けたのはレーニンに由来する問題点であり、その責任をマルクスに負わせるのは無理がある、と志位氏は述べている。
しかし、ここには疑問が残る。
マルクスが社会の発展段階を包括的に特徴づけ、その結果として異なる分配方式を論じたことと、分配方式の違いによって二つの段階を説明することは、必ずしも矛盾しない。もちろん、分配方式だけを独立した基準として未来社会を固定的に区分するなら問題がある。だが、そのことと、マルクス自身が二つの段階に対応する分配方式を述べているという事実は区別すべきだ。
分配方式が「結果」であることは、その違いが社会の発展段階を特徴づける要素となることを否定しない。この説明だけで、7中総報告が事実に反していたと結論づけるのは無理があるのではないか。
なお、志位氏自身、2004年の改定が、分配の仕方によって未来社会の発展段階を区分する「国際的な定説」を乗り越えたことを画期的だと評価している。争点は、その定説を採るかどうかではなく、マルクス自身が述べたことの読み方と、それを綱領でどう扱うかにある。
3.青写真を描かないという判断は否定されたのか
さらに重要なのは、7中総報告が二段階論を採用しなかった理由である。
志位氏が10月22日に整理したように、7中総報告の論点は分配論の解釈にとどまらない。マルクスとエンゲルスは未来社会の青写真を描くことを厳しく排除していたのに、『ゴータ綱領批判』の論じ方は分配問題を青写真に近いところまで書いている、という指摘がある。生産物が「溢れるほど」湧き出ることを条件に想定するのは、未来社会論に新しい矛盾を持ち込む、という指摘もある。そのうえで、二段階論ではなく、青写真主義を厳しく排除した原則的な態度の方を選ぶ、と結論づけていた。
この判断は、マルクスの個々の文章の解釈とは区別して評価する必要がある。
志位氏は、『資本論』第3部の「真の自由の国」という展望を根拠に、『ゴータ綱領批判』のより高い段階の規定も、人間の自由で全面的な発展を念頭に置いたものだと論じている。仮にその解釈を受け入れたとしても、青写真を描かないという判断が直ちに否定されるわけではない。マルクスが未来社会について豊かな展望を示したことと、それを現代の党綱領にどこまで具体的に採用すべきかは別問題だからだ。
志位氏は、共産主義社会のより高い段階の分配がどうなるかは、その時の社会の性格や発展に応じて変化するのであり、今から固定的で不変の分配法則を考えるべきではないという7中総報告の指摘に、「その通り」と賛同している。同時に、将来「必要に応じての分配」が現実のものになるという想定は「合理的な想定の一つ」であり、今から否定することには根拠がないと述べている。
ここで、否定することと、あらかじめ規定しないこととは違う。7中総報告が未来社会の分配方式を固定的に規定しないとしたのは、その可能性自体を否定したからではない。
志位報告では、青写真を描かないという原則そのものを、今回どう評価するのかは示されていない。固定的な分配法則を避けるという点に賛同しているのであれば、当時の判断の何を改める必要があるのか。青写真主義を避けるという原則を維持するのか、変更するのか。その説明が必要ではないだろうか。
4.「真の自由の国」は視野に入っていなかったのか
志位氏は10月22日の報告会で、7中総報告の最大の問題点は、国際的な定説の誤りを分配方式による区分だけの批判にとどめ、「真の自由の国」の開花という未来社会の真の魅力を無視した議論であることへの批判が十分でなかった点にあるとした。そのために2004年の改定では、生産手段の社会化を社会主義的変革の中心に置いたものの、「真の自由の国が十分に視野に入ったものにはなりませんでした」と述べている。10中総報告でも、現綱領では「必然性の国」の問題として論じられ、「真の自由の国」に属する命題が埋もれてしまったと指摘していた。
しかし、2004年綱領は、生産手段の社会化によって労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだすと明記していた。志位氏自身、この点を、マルクスの未来社会論の最大の核心部分に光を当てた画期的な意義をもつものだと評価している。不破氏も、2004年の第23回党大会の結語で、この未来像の特質を「一口に言えば、人間の自由、人間の解放であります」と述べていた。志位氏はこれを「求めていた言葉に出会った」と受け止めたと語っている。
ここで区別すべきなのは、社会主義的変革の中心的課題と、その変革によって実現しようとする社会の目的である。生産手段の社会化を変革の中心に据えることと、人間の自由な発達を未来社会の目標とすることは、矛盾しない。志位氏も、生産手段の社会化は人間の自由を実現するための「条件であり手段」だと位置づけており、両者の関係をどう綱領に書くかが論点になる。
今回の改定で、その目的と手段の関係を、より明確に表現する意義はあるかもしれない。志位氏は、2004年綱領の問題点を三つ挙げている。生産手段の社会化から社会と人間の変化を導く演繹的な構成になっていること、「真の自由の国」が「必然性の国」の変化の中に埋もれていること、二段階論を採用しなかったことである。ただ、それらが綱領上、どの条文の、どの表現に、どのような不都合をもたらしているのかは、さらに具体的に示される必要がある。
そもそも、未来社会の発展段階を細かく規定しなかったことは、青写真を描かないという当時の判断とも関係している。その判断との関係をどう整理するのかも、あわせて問われる。
5.国家の死滅をめぐる説明は、なぜ変更されるのか
10月22日の報告会で、さらに重大だと思うのは国家権力の問題である。
改定案は、現行綱領にある「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき」という条件を削除する。志位氏は、国家権力そのものが不必要になる社会が高度な発展を遂げたときに実現するという考え方は、レーニンの『国家と革命』に由来するもので、マルクスの立場ではないと説明した。この点をレーニンによる誤謬の是正としている。
この点については、まず2003年の経過を確認する必要がある。
2003年6月23日の7中総で、不破氏は党内から出た質問に答え、次のように説明している。過渡期が終われば階級的な性格をもつ国家は不要になる。しかし、マルクスもレーニンも、階級がなくなったからただちに国家がなくなるとは考えなかった。共同社会が成熟し、強制力をもつ国家機能が次第に眠り込み、長い時間をかけて最後に消滅する、という見通しだった。「搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき」という条文は、新しい社会が生まれ、世代交代を含む一定の歴史を経た段階を表現したものとして読んでほしい、とも述べている。つまり、この回答は国家の死滅を、マルクスとレーニンに共通する見通しとして説明していた。
レーニンの国家論への批判は、同年8月の不破氏の講義「『ゴータ綱領批判』の読み方」(本ブログ写真)で行われた。志位氏自身が、10月22日の報告会で、その点を不破氏が詳細に解明していたと述べている。そのうえで志位氏は、そうした批判があったにもかかわらず、レーニンに由来する定式が現綱領に残ったと説明する。
志位氏は今回、過渡期が終わった段階で国家の役割も終わると述べる。しかし、階級支配のための国家が不要になることと、共同社会における強制的な機能がすべて不要になることは、同じ問題ではない。2003年の不破氏は、その違いを踏まえて、国家の死滅を歴史的な過程として説明していた。
それなら、今回の改定では、当時の説明のどこがマルクスの立場と異なっていたのかを具体的に示す必要がある。国家の死滅には共同社会の成熟という過程が必要だという説明は、なぜマルクスの立場と矛盾するのか。過渡期が終われば国家の役割も終わるという今回の説明では、強制的機能の消滅をどう考えるのか。
こうした問題に答えないまま、従来の規定をレーニンやソ連の影響として片づけることには、説得力がない。まして、この規定は、2003年の7中総から2004年の第23回党大会に至る討論を経て採択されたものである。当時の党指導部が説明し、党として決定した内容を変更するのであれば、変更する理由を明らかにしなければならない。
6.綱領改定の必要性は、どこにあるのか
ここまで検討してきた分配問題、青写真主義の問題、国家権力の問題には、共通する論点がある。
志位氏の報告は、マルクスの著作の新しい読み解きに多くの説明を費やしている。2004年綱領の問題点についても、三つの点を挙げて説明している。しかし、2003年から2004年にかけて党が行った綱領上の判断を、なぜ今、変更する必要があるのかという点では、説明が十分とはいえない。
分配論については、マルクスが何を述べたかという解釈の問題がある。しかし、それとは別に、将来の分配方式を綱領に規定しないという判断があった。
「真の自由の国」についても、従来の綱領は、労働時間の抜本的短縮と人間的発達の保障という展望をすでに示していた。それを今回どのように発展させるのかが問われる。
国家権力については、2003年に党内からの質問に答えて説明し、採用した規定を、今回なぜ削除するのかが問われる。
これらは、マルクスの著作をどう解釈するかという問題だけでは説明できない。
党の綱領は、マルクス研究の成果をまとめるためだけの文書ではない。党がどのような社会を目指し、その実現に向けて何をするのかを示す政治文書である。そうであれば、今回の改定によって、従来の綱領では示せなかった何が示せるようになるのか。従来の綱領は、未来社会の魅力を伝えるうえで、どの規定が障害になっていたのか。その説明が必要になる。
7.不破氏の意向に言及することをどう考えるか――10中総報告から
ここまで、主に10月22日の報告会での志位氏の発言を中心に、7中総報告に対する批判を検討してきた。最後に、それとは別に、10月12日の10中総報告での志位氏の発言について考えたい。
志位氏は10中総報告で、2024年1月17日、第29回党大会の際に伊豆学習会館で不破氏と会談したことを紹介した。この会談には山口富男氏が同席し、詳細な記録をとったという。志位氏の説明によれば、不破氏は「現綱領は、自分自身との関係でも、研究の途上で作成したものであり、人間の自由と全面的な発展をめざすというマルクス本来の見地から党綱領を改定することに賛成です」と表明し、「新しい指導部のもとですすめてください。党の理論的な見地の発展ということで、よく検討して諮るようにしてください」と託したという。志位氏はそのうえで、「今回の綱領一部改定案は、不破前議長も存命ならば歓迎してくれる内容となったと考えるものであります」と述べた。
不破氏が、人間の自由と全面的な発展という見地からの改定に賛成したという点は、そのとおりに受け止める必要がある。ただし、それは2024年1月の話であり、今回の具体的な改定案が示される以前のことだ。不破氏が求めたのは、十分な検討を経たうえで党の意思決定に委ねることだった。今回の具体的な改定案を承認したということではない。
不破氏は2025年12月30日に亡くなっている。10中総報告は、2003年の7中総報告や2004年綱領の問題点を指摘する内容でもある。不破氏には、それらに反論する機会も、今回の改定案を評価する機会もない。その状況で、不破氏が存命ならば歓迎してくれるはずだと述べたことには、違和感がある。故人の意向を推測することが、改定案の正当性を補強する役割を果たしてはいないか。
志位氏は、10月22日の報告会の結びでも、不破氏の晩年の探究に学び、支えられたと述べて、敬意と感謝を表明している。その気持ちは尊重されるべきだ。だが、それは改定案の是非を判断する根拠とは別の問題である。
会談には山口氏が同席し、詳細な記録をとったとも説明されている。それなら、不破氏が何に賛成し、何について検討を求めたのかを、検証可能な形で明らかにすることが望ましい。
そもそも、綱領改定の是非は、不破氏が賛成したかどうかで決まるものではない。2004年の綱領は、党内討論を経て党大会で決定されたものである。その判断を変更するのであれば、当時の説明のどこに問題があり、今回なぜ変更する必要があるのかを、党員が納得できるように論証すべきだ。
問われるのは、故人が今回の改定を歓迎したかどうかではない。不破氏が求めたという「よく検討して諮る」という姿勢が、実際の改定論議にどこまで貫かれているかである。
8.綱領改定に求められる説明責任
今回の問題は、不破氏と志位氏のどちらのマルクス解釈が正しいかという論争にとどまらない。2004年の綱領は、2003年の7中総での検討と約7カ月の党内討論を経て、党大会で決定されたものである。
党大会で決めた綱領でも、新たな研究や情勢の変化に応じて見直すことはありうる。だからこそ、従来の判断のどこに問題があり、何を維持し、何を改めるのかを具体的に示さなければならない。志位氏は2004年改定の積極的意義と過渡的な制約を整理したが、当時の綱領上の判断をどう検証したのかは、なお十分に示されたとは言い難い。
必要なのは、不破氏が歓迎したであろうという推測のような、過去の指導者による裏づけではない。党員が改定の必要性と妥当性を判断できる、具体的な説明である。
マルクスの解釈を訂正することと、党の綱領を改定することは別の問題である。2004年に党として選んだ原則や判断を、なぜ今変更するのか。この問いに答えることが、改定を提案する指導部の責任ではないだろうか。
注:志位氏の発言と7中総関連の引用は、しんぶん赤旗掲載の10中総提案報告(2026年10月14日付)、2026年10月22日報告会の全文、2003年6月30日付の7中総での不破氏の発言(大要)による。
不破哲三 古典研究「マルクス未来社会論」(新日本出版社)2004年7月初版
本書には2003年8月の党本部での学習会「『ゴータ綱領批判』の読み方-マルクス・エンゲルスの未来社会論-」の講義内容の詳細が書かれている。(最も詳しい解説)

『ゴータ綱領批判』の「共産主義社会のより高い段階」論について
――綱領一部改定案の理解のための補足報告 資料1 資料2
参考

不破 哲三 (著) 新・日本共産党綱領を読む(新日本出版社)
註※ 本書P349には以下のように記述されている。
未来社会論の理論的準備となる主要点
(一)生産物の分配方式――まず「労働に応じて」の分配、ついで「必要におうじての分配」、こういう形で生産物の分配方式のちがいによって未来社会そのものを二つの段階に区分するという考えは、レーニンの解釈であって、マルクスのものではなかったこと。
(二)マルクスもエンゲルスも、未来社会を展望するさいに、特定の形態を固定して、新しい社会の建設に取り組む将来の世代の手をそれでしばってしまう青写真主義的なやり方は、極力いましめており、分配方式の問題もその例外とはしなかったこと。
(三)マルクスが、党の綱領に書き込むべき社会主義的変革の中心問題として求めたのは、分配問題ではなく、生産様式をどう変革するか、であり、具体的には、生産手段を社会の手に移す「生産手段の社会化」の問題であったこと。
(四)マルクスもエンゲルスも、未来社会を人類の「本史」(本来の歴史)にあたる壮大な発展の時代としてとらえ、「必要に応じて」の分配という状態への到達が、共産主義社会の完成の指標となるといった狭い見方をとったことは、けっしてなかったこと。マルクス、エンゲルスの未来社会論が、社会発展の主要な内容としたのは、人間の自由な生活と人間的な能力の全面的な発達への努力、社会全体の科学的、技術的、文化的、精神的な躍進にあったこと。

不破哲三「党綱領の未来社会論を読む」(日本共産党中央委員会出版局)


