本シリーズでは、『マルクス・リバイバル』各章の内容を追いながら、マルクスの概念や現代的意義について考察してきた。
そして、本書を読み進める中で、『マルクス・リバイバル』とは、単なる古典回帰ではない。現代の危機を出発点にマルクスを再読し、その概念や方法を現代分析へ応用し、その結果としてマルクス解釈そのものも更新していく循環的な知的運動、そして、研究の深化であることが見えてきた。
本書の特徴――マルクスを使って現代を理解する
本書全体の構成はいずれの章も次の特徴がある。
現代の危機⇒マルクスの再読⇒現代分析への応用⇒マルクス解釈の更新
例えば、第8章「労働」では、AIやギグワーク、プラットフォーム資本主義といった現代的問題を背景に、労働や自由な時間をめぐるマルクスの議論が再び読み直されている。
第3章「民主主義」では、市場経済のもとで民主主義が抱える限界という現代的問題意識から、政治的解放と人間的解放をめぐるマルクスの議論が再検討されている。
第5章「階級」では、サービス化や労働の多様化という現代社会の変化を踏まえて、階級概念そのものが再考されている。
つまり、本書の特徴は、「マルクスは、本当は何を言っていたのか」という問いだけではなく、「マルクスを使って現代をどう理解するのか」という問いにある。
世界中の研究者による対話に参加する
さらに重要なのは、この営みが、一人の研究者によって行われているのではないということである。
今日のマルクス研究では、世界各国の研究者が、国際学会や共同研究、論文や著書を通じて、互いの議論を参照し、批判し、ときに補い合いながら研究を発展させている。
ポストン、アントゥーネス、カリニコス、ウッド、ムストらは、それぞれ異なるテーマを論じているが、その背後には共通して、「現代資本主義をどう理解するのか」「自由とは何か」「労働とは何か」「民主主義とは何か」という問いが存在している。
その意味で、『マルクス・リバイバル』を読むということは、単に一冊の本を読むことではなく、いわば「世界中の研究者による長い対話の一場面に参加すること」に近い感覚が生まれてくる。
マルクスリバイバルはマルクス理解の更新である
「自由な時間」という論点があるが、それ自体が新しい発見なのではなく、長年にわたり国際的な研究の蓄積がある問題系の一つとして見えてくる。
そして、なぜ今、自由が再び注目されているのか。AIや自動化の進展は、人間の自由や労働をどう変えるのか。そうした現代の問いの中で、マルクスが再び読み直されていることが理解できるようになった。
この視点から見ると、マルクスブームというのは、『マルクス・リバイバル』であり、それは、「マルクスに帰れ」という運動ではなく、「現代の問題から出発してマルクスを読み直し、その対話を通じて、現代とマルクス理解の双方を更新していく営み」であることに気づかされた。
【付記】『マルクス・リバイバル』と日本共産党
志位議長にみる日本共産党のマルクス理解
マルチェロ・ムスト氏との対談で、志位和夫氏は『マルクス・リバイバル』を読んだと述べている。もちろん、その受け止め方を外部から断定することはできない。ただ、本書を「世界中の研究者による長い対話」として読めば、日本共産党のマルクス理解との間に、少なからぬ違いがあるように感じる。
例えば、志位氏の青本『Q&A 共産主義と自由』は、本を読めば明らかなように、ソ連や中国を連想して「共産主義には自由がない」と考える人々に対して、本来の共産主義はむしろ自由な社会であり、マルクスもそのように述べていることを説得しようとしている。
ここでは、「自由」という論点は、現代の危機から出発してマルクスを再読し、新たな問題提起へと開いていく入口というよりも、「共産主義は自由な社会である」という未来社会像を説明するための原典的根拠として位置づけられている。
「世界でも新しい」論点ではない「自由な時間」
社会主義・共産主義に対する誤解や偏見に応答すること自体は、一つの重要な政治的課題であろう。しかし、『マルクス・リバイバル』を読んでも明らかなように、国際的なマルクス研究では、「自由」はすでに長い研究史をもつ論点であり、AI、自動化、ギグワーク、ケア、脱成長などの現代的課題を考えるために、絶えず新しい視点から論じられている。
その点では、志位氏の全国学生支部・党員交流会での、「自由な時間」への着目を「世界でも新しい」と表現したことには違和感がある。(2026/6/18赤旗掲載)
それは、世界的な研究動向を十分に踏まえていないためなのか、あるいは政治的な問題意識の違いによるものなのかは断定できない。
マルクスを読む目的と理論更新の可能性
しかし、『マルクス・リバイバル』を「世界中の研究者による長い対話」として読む立場と、「マルクス本来の未来社会像の再確認」として読む立場との間には、マルクスを読む目的そのものに少なからぬ違いがあるように思われる。
そして、その違いは、日本共産党の理論形成が、国際的な研究との往復の中で自らの解釈を更新していく方向へ開かれているのか、それとも既定の政治目的との整合性をより重視する方向にあるのかを考える上で、一つの論点を提起しているように思われるのだ。
