マルクス・リバイバル⑭第8章「労働」(リカード・アントゥーネス)AI・ギグワークの時代に

マルクス・リバイバル読解ノート

現代において、「AIや自動化技術の発展によって、労働の時代は終わった」とする言説を耳にすることがある。工場などで働く労働者の割合が減少し、情報技術やサービス産業に代表される知的・非物質的な仕事が広がるなかで、19世紀の思想家であるカール・マルクスの理論は、もはや過去の遺物なのだろうか。

マルチェロ・ムスト編『マルクス・リバイバル』第8章において、ブラジルの社会学者リカード・アントゥーネスは、この労働消滅論に真っ向から反論する。アントゥーネスによれば、マルクスの労働観は、単に労働を否定するものではなく、「労働の二面性」を捉えた、きわめて弁証法的なものである。本稿では、同章の内容を整理し、プラットフォーム資本主義を生きる私たちが、いかにして労働の人間らしさを取り戻せるのかを考察する。

人間にとって不可欠な生命活動としての労働

マルクスは初期の著作において、労働を「人間の社会生活を生産し、再生産するために不可欠な活動」として位置づけた。人間は食料、住居、衣服などを得なければ生きていけない。そのためには、自然に働きかけ、生活に必要なものを作り出さなければならない。労働とは、人間が生きていくための条件を生み出し続ける基本的な生命活動なのである。

マルクスは、人間を動物から区別する重要な特徴を「意識的な生命活動」に見た。動物も生きるために活動するが、人間は自らの活動を意識し、その目的を考え、計画を立てて行動する。最良の蜂は本能に従って行為するが、最悪の建築家は労働を行おうとする前にそれを計画する。

また、人間自身も自然の一部であり、自然から切り離された存在ではない。人間は労働によって自然に働きかけ、それを変化させる。同時に、人間自身の潜在力を発現させ、能力を発達させていく。アントゥーネスは、このような自然と人間との相互作用を、社会的存在と自然との「関係的次元」――すなわち、人間と自然が相互に関わり合いながら存在している次元――として説明する。

『ドイツ・イデオロギー』で述べられているように、人間の最初の歴史的行為とは、生活に必要な「物質的生活そのものの生産」である。人間は生活手段を生産し始めることによって、動物とは異なる社会的存在へと変化していく。つまり労働は、人間に固有の創造的な活動であり、人間が人間として存在すること、すなわち人間化のプロセスそのものに深く結びついた「あらゆる歴史の一つの根本条件」なのである。問題は、社会のあり方が、その本来の意味を変質させてしまうことにある。

資本主義がもたらす「疎外された活動」への変貌

マルクスは『ジェームズ・ミル「経済学要綱」評注』において、本来の労働は人間の生命力や個性を自由に表現する活動であり、「生命の享受」、すなわち人生の喜びとなるものであると述べた。しかし、私的所有を基礎とする資本主義社会は、この人間的な生命活動を歪め、単なる生存・生計維持の手段へと切り縮めてしまう。

『1844年の経済学・哲学草稿』において、マルクスは資本主義の大きな逆説を指摘した。労働者は多くの富を生産すればするほど、自分自身は貧しくなり、安く使われる「商品」のような存在になっていく。「物の世界の価値化に正比例して、人間の世界の非価値化が進む」のである。

この状態を説明する概念が「疎外」である。疎外とは、本来自分のものであるはずの活動やその成果が、自分から切り離され、他者のものとして自分を支配する状態を意味する。労働者が作った商品は資本家の所有物となり、商品や資本の力が強まるほど、逆に労働者はその力に従属させられていく。

この疎外は、結果としての生産物だけでなく、働いている行為そのもの、すなわち生産活動の内部にも及んでいる。本来は、自らの能力を外の世界に現実化するポジティブな契機であるはずの「外化(Entäußerung)」が、資本主義のもとでは、人間を類的本質、すなわち社会的・創造的な本性や人間関係から切り離す「疎外(Entfremdung)」へと転化する。

働いている時間は自分の時間ではなく、「他人のために働かされている時間」となり、労働は自己実現ではなく自己喪失の場になる。人間は、働いていない私生活においてのみ自分らしさを感じ、働いているときには自分自身ではないように感じる。そのため、外的な強制がなくなれば、労働は「ペストのように忌避される」ものとなる。

さらに、人間関係そのものも歪められる。労働者は資本家と対立し、労働市場では他の労働者と競争関係に置かれる。人々は協力し合う存在ではなく、競い合う存在として現れる。また、のちにマルクスは『賃労働と資本』等において、労働者が売っているのは「労働」そのものではなく、働く能力である「労働力」であることを明確にした。労働者は生きるために労働力を資本家に売り続けなければならず、資本との関係から自由に離脱できない構造に置かれている。

具体的労働の従属と「商品の物神崇拝」

『資本論』の段階において、マルクスは資本主義における労働の多面性を、「具体的労働」と「抽象的労働」の二面性からさらに精緻に分析した。

具体的労働とは、農業、介護、教育、建築など、固有の目的をもち、人々に役立つ「使用価値」を生み出す活動である。これに対して抽象的労働とは、それぞれの仕事の具体的な違いを消し去り、単に「人間の労働時間」として同じ尺度で比較し、「交換価値」を生み出す側面である。

資本主義社会では、有用なものを作ることよりも、利益を生み出すことが優先される。そのため、本来は人間の生活に役立つための生産活動であった具体的労働は、交換価値を生み出す抽象的労働へと従属させられる。

ここでアントゥーネスが強く警告するのは、資本主義を超える社会を構想する際、なくなるべきなのは交換価値を生み出すための「抽象的で疎外された労働」であり、生活に必要なものを生産する「具体的労働」そのものは、将来の社会にも存在し続けるという点である。「資本主義を超えること」と「労働そのものが消滅すること」を混同するポストワーク論は、存在論的な誤りである。

また、マルクスは労働時間を、労働者の生活を維持する賃金を生み出す「必要労働時間」と、それを超えて資本家の利益となる「剰余労働時間」、すなわち剰余価値の源泉とに分けた。そして、労働日の延長による「絶対的剰余価値」と、生産性向上による「相対的剰余価値」の搾取構造を明らかにした。

このような交換価値の生産を基礎とする社会では、「商品の物神崇拝(フェティシズム)」が出現する。本来は生産者の間で形成されている無数の人々の労働や生々しい社会的関係が覆い隠され、市場においては商品それ自体が価値を持っているかのように現れる。すなわち、「人間同士の社会的関係が、物と物との社会的関係」という幻影的な形態をとって現れるのである。

さらに、マルクスは、資本の価値増殖に寄与する「生産的労働」を肉体労働に限定しなかった。資本家が経営する「教育工場」の指揮下で剰余価値を生み出す教師の労働は、物質的でなくとも生産的労働である。逆に、使用価値、すなわち有用性だけを生み出す労働は非生産的労働となる。今日のグローバルなバリューチェーンのもとでは、物質的労働と非物質的労働の双方が複雑に組み合わさっており、価値法則の支配は弱まるどころか、むしろより複雑な形で強化されている。

現代の労働への批評――非物質的労働と「技術のパラドックス(逆説)」

情報技術やサービス産業の発展により、研究開発、ソフトウェア、広報、IT、コールセンター、ホテル産業などの「知的労働」や「非物質的労働」が大きく拡大した。これをもって「従来の搾取の仕組みは終わった」とする見方があるが、アントゥーネスはこれを否定する。それらが資本の価値増殖のために利用され、剰余価値を生み出している限り、依然として資本主義的な労働の論理に従属しているからである。

現代資本主義の際立った特徴は、過去の労働の蓄積である「死んだ労働」、すなわち機械や自動化テクノロジー、AIの比重が増大し、「現に人間が行っている生きた労働」が相対的に減少しているという点である。これにより、労働者は生産プロセスの直接的な担い手から、それを外から管理する「監督者ならびに規制者」へと近づく可能性を得た。本来なら、これは人間を過酷な労働から解放するはずの技術革新である。

しかし、この達成は資本の論理そのものによって妨げられる。資本は価値増殖のために、依然として人間の「生きた労働」に依存しているからである。ここに、「技術が人間を楽にするはずなのに、逆に人間を追いつめる」というパラドックスが生じる。

その結果、資本は安定した長期雇用よりも、必要なときだけ利用できる非正規雇用、短期契約、業務委託といった「柔軟で不安定な労働力」を広く求めるようになる。生きた労働を極力減らしつつ、短い時間で剰余労働の抽出を強化するためである。技術が高度化するほど、資本は人間の知的・認知的な特質や多機能的な労働者を高度に利用し、価値の連鎖へと縛り付けていくのである。

結論 自己決定に基づく「自由にアソーシエイトした労働」へ

この過酷な現代資本主義の制約を克服し、代替案を構想するために、アントゥーネスはマルクスの議論を踏まえ、今日における2つの重要な社会的・政治的要求を提示する。

(1)失業を減らすために、労働日を削減する闘い。それは次の重要な疑問を生じさせる――何を、誰のために生産するのか。※

(2)すべての人が働く権利もまた重要な要求である。これは、私たちが疎外された賃労働に何らかの価値を置いているからではない。この種の労働は、資本主義社会の終焉とともに根絶されなければならない。しかし、生命活動としての労働、つまり自由でアソーシエイトした労働が、新しい社会の構築において不可欠な要素の一つとなる。そしてここで、労働に関するマルクスの定式化の本質が、私たちの時代においてもなお、非常に大きな社会的・政治的妥当性を獲得する。※

※この部分は著書からの引用

私たちが目指すべきなのは、利益のための交換価値の増大を目的とする生産ではない。社会に本当に必要な「使用価値」、すなわち人々の生活に役立つものを生み出すことを中心とする、自己決定に基づいた新しい生産様式である。

そこでは労働は、資本に従属した賃労働ではなく、人々が自由な意思に基づいて結びつき、共同で生産を管理する「自由にアソーシエイト(協同・連合)した労働」へと高められる。

『ゴータ綱領批判』で示された「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という高次の社会を実現するために――。労働の本来的な創造性と、資本主義による疎外への変質を弁証法的に見抜いたマルクスの労働論は、21世紀のプラットフォーム経済を生きる私たちにとっても、進むべき道を指し示す、色褪せない羅針盤なのである。

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