マルクスと宗教はどのような関係にあるのか
執筆者:ギルバート・アシュカル(Gilbert Achcar)レバノン出身の政治学・国際関係研究者。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)名誉教授。中東政治、国際関係、革命、宗教、マルクス主義などを研究する。マルクス主義と宗教、オリエンタリズムなどの関係についても論じている。
はじめに
なぜ、『マルクス・リバイバル』で「宗教」を論じているのだろう。マルクスは主として資本主義社会の分析で知られている。なぜ本書では宗教が独立した主題として扱われているのか。また、宗教への取り組みは、後の資本主義分析とどのようにつながったのか。
ジルベール・アシュカルの論文は、完成された「マルクスの宗教理論」を示すものではない。マルクスが宗教批判から現実の社会関係の批判へ進んだ過程と、その考察の意義と限界を明らかにするものである。
1 マルクスには体系的な宗教理論がない
アシュカルは、マルクスには体系的な宗教理論が存在しないと指摘する。マルクスは著作の随所で宗教に言及しているが、宗教そのものを体系的に論じた著作は残していない。残されているのは、宗教を唯物論的に理解するための断片的な洞察である。
唯物論的な理解とは、宗教を教義や観念だけから説明するのではなく、それを生み出した人間の生活や社会関係から説明することである。
ただしアシュカルは、史的唯物論だけでは宗教の多面的な性格を説明できないとも述べる。史的唯物論とは、思想や制度を、人間の物質的生活や生産関係との関連から捉える方法である。宗教の研究には、これに加えて人類学、社会学、精神分析などの知見が必要である。
2 宗教批判から社会批判へ
青年期のマルクスは、宗教批判を主要な課題とする青年ヘーゲル派の影響を受けていた。しかし、次第に宗教的観念を批判するだけでは不十分だと考えるようになった。
アシュカルが引用する「ヘーゲル法哲学批判序説」で、マルクスは「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」と述べている。ここで言う「人間」とは、抽象的で孤立した存在ではなく、現実の国家や社会のなかで生きる人間のことである。
したがって、宗教を生み出すのは現実の国家と社会である。宗教的意識だけでなく、それを必要とさせる社会の状態を批判しなければならない。
『マルクス・リバイバル』で宗教を論じる第一の意味は、ここにある。マルクスは、宗教批判を独立した中心課題とする立場から、宗教を生み出す現実の社会関係を批判する立場へ進んだのである。
3 宗教への取り組みと資本主義分析
宗教への取り組みと資本主義分析との関係について、アシュカルが重視するのは、宗教的疎外と経済的疎外との類比である。
疎外とは、人間が自ら生み出したものが人間から離れ、人間に対立する力として現れる状態をいう。
アシュカルが引用する『経済学・哲学草稿』で、マルクスは、労働者が働くほど、労働者がつくり出した対象的世界が強大になり、労働者自身は貧しくなると述べる。そして宗教においても、人間が神に多くを与えるほど、人間自身に残るものは少なくなると論じる。
ただし、両者は同じものではない。マルクス自身が述べるように、宗教的疎外は意識の領域にあるが、経済的疎外は現実生活における疎外である。
しかしアシュカルは、まさにこの類比こそが、マルクスの哲学批判を資本主義の経済学批判へと転換させる糸口となり、両者の方法論的な連続性を示したと高く評価している。
宗教への取り組みから資本主義分析が直接生まれたわけではない。重要なのは、宗教的意識の批判から、それを生み出す現実の社会的・経済的関係の批判へ進む方法上の転換である。
4 宗教の「表現」と「抗議」
マルクスは宗教を「現実の不幸の表現」であるとともに、「現実の不幸に対する抗議」であると述べた。
宗教は、人々の苦しみを表すだけでなく、その苦しい状態への不満を表すこともある。アシュカルはこの指摘を評価する一方、マルクスが「抗議」の側面を十分に追究しなかったと批判する。とくに、キリスト教が抑圧された貧しい人々の願いを担う場合があることを、マルクスは十分に考慮しなかったという。
また、「民衆のアヘン」という表現は、後世には本来の意図以上に侮蔑的に理解された。19世紀のアヘンは鎮静剤としても使われており、宗教が苦痛を和らげる役割をもつという意味が含まれていた。もっとも、マルクスは、現実的な幸福が実現すれば宗教による幻想的な幸福は不要になると考えていた。
5 信教の自由と宗教批判
アシュカルが重視するもう一つの論点は、宗教に対するマルクスの政治的態度である。
マルクスは、宗教的意識からの解放を求めたが、国家が信仰を禁止したり、宗教を強制的に廃止したりすることには反対した。特定の宗教に国家的な特権を与えず、宗教と国家を分離する立場を支持した。
一方で、信教の自由を保障することは、宗教への思想的批判をやめることではない。アシュカルは、マルクスとエンゲルスの立場を、個人の信仰を国家の干渉から守ることと、労働者党が宗教的信念からの解放を目指すこととの二つから成るものとして整理している。
ただし、その解放は国家の命令によって実現できない。アシュカルが引用するマルクスの発言では、宗教への強制措置は無意味であり、社会の発展と教育が重要であるとされている。
したがって、マルクスの立場においては、宗教を思想的に批判する自由と、個人が宗教を信じる自由は完全に両立する。後年の20世紀における社会主義国家の宗教弾圧を、マルクス自身の思想と同一視することはできないのである。
6 現代の宗教復興をどう捉えるか
マルクスは、社会主義の発展とともに宗教は次第に消滅すると考えていた。しかし、宗教は消滅せず、20世紀末には原理主義的な形態を含めて大きな影響力をもつようになった。
アシュカルは、この現実を踏まえても、宗教を社会的・経済的条件との関係から分析するマルクスの方法には、なお有用性があるとする。
新自由主義への転換と「現存社会主義」の危機・崩壊によって社会的条件が悪化した時期と、宗教的なものの回帰が同じ時期に起きたことは、偶然ではないと考えるのである。
また、現代ヨーロッパでは、イスラム教が移民を起源とする抑圧されてきた人々の信仰であることを重視する。宗教的少数者への差別に対して信教の自由を守ることは、政治的自由と反人種差別の課題となる。
同時に、信教の自由を擁護することは、家父長制、ジェンダー抑圧、国家による宗教的強制、宗教の政治利用を批判しないことを意味しない。宗教的少数者の自由を守ることと、宗教による束縛を批判することの両方が必要である。
おわりに
『マルクス・リバイバル』で宗教を論じる意味は、完成されたマルクスの宗教理論を示すことではない。
重要なのは、マルクスが宗教的観念の批判から、それを生み出す国家と社会の批判へ進んだことである。アシュカルは、宗教的疎外と経済的疎外との類比が、哲学批判から資本主義の経済学批判へ進む糸口になったと評価する。
そのうえで、アシュカルは、マルクスには体系的な宗教理論がなく、宗教の「抗議」の側面についても分析が不十分だったと指摘する。また、宗教批判と信教の自由が両立すること、宗教を社会的・歴史的条件から分析する必要があることを示している。
この論文は、マルクスの宗教論を完成された理論として復元するものではない。宗教への取り組みを通じて形成されたマルクスの方法、その限界、政治的態度、現代に残された課題を明らかにするものである。

