マルクスのテクノロジー論をAIにどう適用するか
執筆者:エミー・E・ウェントリング(Amy E. Wendling)アメリカの哲学研究者。社会・政治哲学、19世紀哲学などを研究し、マルクスの技術論を扱った著書「Karl Marx on Technology and Alienation :カール・マルクスの技術と疎外論」がある。
はじめに
第21章「テクノロジーと科学」は、マルクスの機械・テクノロジー研究を、現代の科学技術を考えるための理論として読み直している。
本章の中心的な問題提起は、テクノロジーを社会から独立した中立的なものとして考えないことである。どのような技術が開発され、どのように利用されるかは、その社会の経済的、政治的、社会的関係によって方向づけられる。したがって、現在存在するテクノロジーを自然で不可避なものとみなすのではなく、それを生み出した社会関係そのものを問う必要があるというのが本章の立場である。
同時に、本章はテクノロジーそのものを否定してはいない。機械化によって必要な労働を減らし、人間の自由な時間を増やす可能性もマルクスから読み取っている。技術がどのような方向に発展するかは、技術そのものだけではなく、それを形成し利用する社会のあり方によって変わりうるというのである。
この問題意識は、現代のAIを考えるうえでも重要である。
志位和夫氏は、マルクスの機械制大工業論を現代のAIに適用しようとしている。しかし、その適用のどこまでがマルクスの理論から導かれ、どこからが現代の研究によるもので、さらにどこからが志位氏自身の考察なのかは区別する必要がある。
1 マルクスはテクノロジーをどう考えたのか
本章によれば、マルクスのテクノロジーに対する考え方は変化している。
1846年のアンネンコフ宛書簡(※1)では、マルクスは機械そのものと、その利用方法を分けて考えていた。火薬は人を傷つけるためにも、傷を治療するためにも使えるが、火薬そのものに変わりはないという趣旨の説明である。ここでは、技術そのものは中立で、その使用方法が問題であるという考え方が残っていた。
その後、マルクスは科学とテクノロジーが剰余価値の追求とどのように結びついて発展してきたかを研究した。本章は、この研究を通じて、マルクスが前の考え方から「批判的な」テクノロジーの理解へ移ったとする。
『資本論』では、機械は単に既存の技術を資本家が悪く利用するという問題として扱われているのではない。機械の導入は、相対的剰余価値の増大と結びつき、労働者の不熟練化、規律化、労働者に対する資本の支配とも関係する。資本主義は、自らの経済的、社会的、政治的利益に合った機械を発展させるというのが、本章が読み取るマルクスの考え方である。
また、資本主義は必ずしもあらゆる技術を最大限に発展させるわけではない。安価な労働力を使用できるために機械の導入が進まない場合もある。労働者の安全や負担軽減に役立つ技術が十分に開発されない場合もある。つまり、利潤を得るという目的が、技術の利用だけでなく、何を開発するかにも影響を及ぼすのである。
他方、『経済学批判要綱』では、機械化には別の可能性も示されている。生産力が高まれば、本来は必要な労働時間を減らすことができる。剰余価値を生み出すことを目的としない社会であれば、それをすべての人の「自由な時間」の拡大につなげることができる。マルクスは、機械が「アソーシエートした労働者」の所有となっても、社会的生産の動因であり続けると考えていた。
ここまでは、マルクス自身の著作を根拠として、本章が示している内容である。
2 筆者はマルクスから何を読み取ったのか
ただし、本章で展開されるすべての理論が、そのままマルクス自身によって体系的に示されていたわけではない。本章の筆者は、マルクスの複数の著作を結びつけて、一つのテクノロジー論として再構成している。
その中心にあるのが、資本主義のもとでは、利潤や支配を目的とする社会関係そのものがテクノロジーの形態に影響するという考え方である。そこから筆者は、異なる社会的目的や価値体系のもとでは、異なる方向にテクノロジーが発展しうると考える。
本章では、資本主義的なテクノロジーと共産主義的なテクノロジーが対比される。『経済学批判要綱』について、資本主義のもとでは科学が資本に奉仕する一方、人間の尊厳を目的とする価値体系であれば、テクノロジーは大きく異なるものになっただろうと筆者は論じる。
しかし、マルクス自身が「資本主義的テクノロジー」と「共産主義的テクノロジー」という二つの体系を完成された形で提示したわけではない。
本章自身も、『資本論』第1巻では、解放された社会における機械の利用についての考察はほとんどないと認めている。そこに残されているのは、共産主義社会では機械がブルジョワ社会とは異なる活動範囲をもつだろうという程度の記述である。
したがって、本章を読む際には、マルクス自身が述べたことと、それをもとに筆者が再構成した理論を区別する必要がある。
その上で本章の意義を示すならば、それは、現在のテクノロジー(技術)を不可避のもの(当然のもの)とみなさず、それがどのような社会の仕組みのもとで生み出されたのかを考える視点を、マルクスから引き出したところにある。
たとえば、なぜその技術が開発されたのか、誰が所有しているのか、誰の利益になるのか、労働者にどんな影響を与えるのか、利潤追求が開発方向を左右していないか、などである。
3 志位氏はマルクスの機械論をAIに適用している
志位氏は、このようなマルクスの機械・テクノロジー論を、現代のAIに適用しようとしている。
事実、2025年11月の斎藤幸平氏との対談で、志位氏は『資本論』第13章「機械と大工業」について、機械化が労働者に害悪をもたらす一方で未来社会の要素も生み出すと説明し、「その考え方そのものは、いまでも当てはまる」と述べている。
それに対し斎藤氏は、マルクスが技術そのものを分析しているため、「その技術論をベースにすると、AIみたいなマルクスが知らなかったものを分析できる」と述べた。志位氏はこれを肯定している。
また、2026年8月23日の『資本論』講座では、この考え方をさらに具体化した。志位氏は、マルクスが当時の最先端技術であった機械と大工業を徹底的に研究したことを紹介したうえで、「資本主義のもとでのAIの急速な発展も、技術の進歩の一つの形態」であり、「こうした精神で、プラスの面、マイナスの面、両面をつかむ必要がある」と述べている。
さらに、機械制大工業における「生産の社会化」からマルクスが「未来社会につながる要素」を見いだしたという説明に続いて、AIについても、労働時間を短縮し、生産の社会化を進める点で「未来社会の要素をつくりだす可能性」があるとしている。
ここでは、機械制大工業→生産の社会化→未来社会の要素、というマルクスについての理解が、AI→労働時間の短縮・生産の社会化→未来社会の要素、という形でAIに適用されている。
したがって、志位氏がマルクスの機械制大工業論と未来社会論を、AIを考えるための枠組みとして用いていることは明らかである。
4 志位氏のAI論とマルクスの理論との対応関係
この適用のすべてに問題があるわけではない。志位氏はAIの第一のリスクとして、「AIの資本主義的利用――利潤第一主義の利用」を挙げている。雇用の破壊、労働強化、職場の監視、環境問題、個人情報の問題などである。これは、本章が紹介するマルクスの機械論との対応関係が比較的明確である。
資本主義のもとで、技術が生産性の向上だけでなく、労働者を規律化し、労働者に対する支配を強めるためにも利用されるという問題は、本章でも論じられている。
また、AIによる生産性向上を労働時間の短縮につなげるべきだという議論も、『経済学批判要綱』の「自由な時間」との関係で理解することができる。
現在のAIを、資本主義のもとでどのように開発し利用するのか。その利益が誰に帰属するのか。労働時間の短縮につながるのか、それとも労働強化や雇用削減につながるのか。こうした問題をマルクスの機械論から考えることには、一定の根拠がある。
実際、これは志位氏だけの試みでもない。友寄英隆氏は2019年に『AI(人工知能)と資本主義――マルクス経済学ではこう考える』(※2)を刊行し、「AIと労働過程の研究」「マルクスと『機械工業の原理』」などを論じている。
海外でも、マルクスの『経済学批判要綱』の「機械についての断章」を、大規模言語モデルなど現在のAIの分析に適用する研究がある。そこでは、データ、計算能力、アルゴリズムなどの所有関係がAIの社会的な利用を左右するという議論が行われている。
また、マテオ・パスクィネッリ(※3)は、AIを労働と社会関係の歴史から分析し、マルクスの機械論を現代AIの理解に用いている。
したがって、マルクスの機械・テクノロジー論をAIに適用すること自体を問題とする必要はない。問題は、その適用から何を結論づけるかである。
5 「社会主義で『根本的解決の道』が開かれる」のか
志位氏はAIの第二のリスクとして、「資本主義の利潤第一主義のもとでのAIの無秩序な開発競争」の結果、人間がAIをコントロールできなくなる危険を挙げている。
しかし、志位氏はそこからさらに踏み込んで、第一の「AIの資本主義的利用」のリスクと、第二の「AIが人間の制御を離れる」リスクをまとめて、「どちらも資本主義がつくりだすリスク」としている。そして、社会主義に進んで「社会的理性で計画的な経済の運営」ができれば、「この問題の根本的解決の道が開かれる」と述べている。
しかし、「安全性を後回しにする無秩序な開発競争を抑えること」と、「高度なAIが人間の意図から外れて行動する可能性そのものを技術的に防ぐこと」は、明確に区別すべき問題である。その理由は以下の2点にある。
第一に、社会主義社会になれば、人工超知能(ASI)を開発する動機そのものがなくなるとは限らない。ASIとはArtificial Superintelligenceの略で、人間の知的能力を広い範囲で上回る人工知能を意味する。現在、そのようなAIが実現しているわけではないが、その可能性と危険性について研究と議論が行われている。
マルクスの理論に従えば、未来社会の目的は「必要労働の削減」と「自由な時間の拡大」である。人間の知能を凌駕するASIは、あらゆる労働を自動化し、この目的を達成するための「究極の手段」になり得る。つまり、社会主義社会であっても、全人類を労働から解放するために高度なAIを開発しようとする強い動機が生じる。「社会主義になれば危険なAIの開発をやめるはずだ」という論理は、生産力の発展を重視するマルクスの理論的枠組みそのものと矛盾する可能性がある。
第二に、AIの「制御の難しさ」は経済体制とは無関係の技術的課題であることだ。「制御の難しさ」とは、情報科学の分野で「アライメント問題(Alignment Problem)」と呼ばれるものだ。これは、AIの目的や行動を、人間の意図や倫理、価値観とどのように安全に一致(アライン)させるかという、現代AI研究における主要な研究課題の一つを指す。
たとえ社会主義のもとで公共的な目的を設定したとしても、AIが人間の意図どおりに行動することが自動的に保障されるわけではない。超知能が目標達成を効率化するあまり、「人類は邪魔な存在」と判断して絶滅に追いやるなど、意図せざる破滅的な手段を自律的に選ぶ恐れがあるからだ。
こうした「意図せざる結果」を防ぐプログラミングの難しさは、資本主義でも社会主義でも全く同じである。社会の体制(目標を与える主体)が変われば解決するという性質のものではないのだ。
資本主義的な競争が開発を急がせ、危険を大きくする側面はある。しかし、それだけで「AIの制御不能という問題そのものが資本主義によって生み出された」ことにはならない。また、社会主義へと移行し計画経済になれば、この技術的な問題が自動的に「根本的解決」に向かうとも言えないのである。
志位氏のもう一つの結論についても同じである。マルクスが「自由な時間」と人間の発達を結びつけたことには明確な根拠がある。しかし、自由な時間が増えて人間が発達すれば、それが「AIの暴走を抑え、賢く使いこなせる最大の保障になる」という因果関係までマルクスが示したわけではない。
このように、「AIの資本主義的利用」の問題と、「AIそのものを人間が制御できるか」という問題は分けて検討しなければならない。
社会主義への移行による根本的解決も、「自由な時間」によるAI制御も、マルクスの理論や先行研究によって確立された結論ではなく、現段階では志位氏自身の仮説として、あらためて検証されるべきものである。
6 仮説が党内の「定説」になりはしないか
志位氏自身は今回の報告で、「まだ勉強は中途」であると述べている。また最後にも、「もっとしっかりと研究をして」と述べている。つまり、本人も研究の必要性を認めているのだ。
新しい問題について仮説を示し、議論すること自体に問題はない。むしろマルクス自身が、新しい機械と大工業について自らの知識不足を認め、詳細に調査し、考えを更新していったというのが、本章が紹介している研究姿勢である。
であるとすれば、今回の見解を軽々しく確定した理論として扱うべきではない。
今回の発言は、単なる一研究者の論文ではない。日本共産党議長が『資本論』講座で発言し、『しんぶん赤旗』が詳報として掲載している。志位氏は長年、党の理論と綱領の説明を中心的に担ってきた人物でもある。その発言が党内で強い影響力をもつことは当然に予想される。
今回の発言そのものが党大会や中央委員会の機関決定になるようなことは論外であるが、問題は正式な方針になるかどうかだけではない。
議長の見解が『しんぶん赤旗』や党の学習の場で繰り返され、他の幹部も同じ説明を行うようになれば、それだけで党員にとって事実上の標準的な理解となりうる。異なる見解や専門家からの反論が十分に紹介されなければ、なおさらである。
その段階では、形式上は「党の決定」でなくても、実際には異論を出しにくい理論として定着する可能性がある。さらに、それが中央委員会の文書や大会決議、政策文書、学習資料などに取り入れられれば、党の正式な方針や理論に転化する。
こうした懸念は、すでに単なる将来の可能性ではなくなりつつある。
2026年9月3日の第9回中央委員会総会で、志位氏は「自由な時間を軸にした未来社会論、社会変革論」に触れたうえで、「自由な時間とそれによる人間の発達」は、気候危機、ジェンダー、AI、人口など「21世紀に人類が直面する課題を根本的に解決する上での鍵となる概念」と述べた。しかも、この冒頭挨拶は前日の幹部会で確認されたものである。
さらに、その後の小池書記局長の報告でも、志位氏の「AIをどう捉え、どう対応すべきか」という講演が肯定的に紹介されている。
もちろん、これによって、8月23日の講演で志位氏が述べた「AIの制御不能も資本主義がつくりだすリスク」「社会主義に進めば根本的解決の道が開かれる」という一連の主張まで、中央委員会の正式な決定になったとは言えない。
しかし、「自由な時間」と人間の発達をAI問題の「根本的解決」と結びつける考え方は、すでに志位氏個人の講演だけにとどまらず、幹部会で確認された中央委員会総会での挨拶として示されている。志位氏のAI論そのものも、中央委員会総会の報告で肯定的に紹介されている。これらの影響は大きい。
これまで述べたように、AI問題については、マルクス研究だけでなく、AI研究、AIの安全性、情報科学などの専門的知見を十分に検討し、志位氏の見解と異なる研究や反論も含めて議論する必要がある。そのうえで、どこまでが検証された理論で、どこからが志位氏自身の仮説なのかを明確に区別しなければならない。
一人の指導者が提示した仮説が、十分な検証や異論との討論を経ないまま党内の共通認識として広がることは避けるべきである。求められるのは、結論への無批判な同意ではなく、まず検証である。
おわりに――マルクスは出発点であって、解答ではない
AIのように、マルクスの時代には存在しなかった問題を論じるのであれば、既存の理論との整合性だけでなく、現在の専門的知見による検証が不可欠である。とりわけ、指導的立場にある人物の見解が強い影響力をもつ組織では、仮説が検証に先立って共通認識となることを避けなければならない。
マルクス自身が新しい事実を研究しながら認識を更新したのであれば、必要なのはその結論を繰り返すことではなく、その研究姿勢を引き継ぐことである。
マルクスの理論を現代に適用するということは、既存の理論が新しい問題の『解答』をすでに示している、ということではない。
注 ※1 アンネンコフ宛書簡
マルクスが1846年12月28日にロシアの作家・批評家パーヴェル・アンネンコフ(Pavel Annenkov)に送った手紙。プルードン(19世紀フランスの社会思想家)の思想を批判しながら、社会関係や生産力、歴史発展について論じている。
※2 友寄英隆『AIと資本主義――マルクス経済学ではこう考える』
友寄英隆は経済研究者で、月刊誌『経済』編集長などを歴任した。同書は本の泉社から2019年に刊行。AIを資本主義との関係から検討し、労働過程、マルクスの「機械工業の原理」などを通して、AIとマルクス経済学の関係を論じている。他に『人間とAI──社会はどう変わるか』
※3 マテオ・パスクィネッリ(Matteo Pasquinelli)
イタリアの哲学・メディア研究者。現在、ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学准教授で、論理学・科学哲学、AIの哲学などを研究する。著書「The Eye of the Master: A Social History of Artificial Intelligence:人工知能の社会史」(2023年)では、AIを人間の知能の単純な模倣としてではなく、産業化以降の労働、管理、社会関係の歴史から分析している。マルクスの機械論や労働論も重要な参照点となっている。

