共産党研究 第Ⅵ部 理論はいかに形成されるべきか
5 異論への「批判の型」は継承されていないか
ここでもう一つ、歴史と現在をつなげて考えておきたい。それは、異論に対する「批判の型」である。
「党員としての正しさ」にすり替える論法
党には「またか論」「かべ論」「段階論」という言葉があった。
- 「またか論」は、「党勢拡大の取り組みを何度繰り返しても成果が出ていないのではないか」など、「拡大月間」などが繰り返されることに対して「またか」と受け止めること。
- 「かべ論」は、「現実には拡大できる条件が弱くなっているのではないか」と、自分の周囲の状況から、党の政治的影響力や党勢拡大が「壁」に突き当たっていると判断すること。
- 「段階論」は、「まず国民運動や支持を広げ、その結果として入党者を増やすべきではないか」とし、まず大衆運動を発展させ、その後に党勢拡大を進めるべきだと考えること。
1973年に党中央委員会出版局が刊行した『日本共産党の組織活動』では、このような意見を、党建設や党勢拡大に消極的であると位置づけ、単なる活動方法についての意見の違いではなく、「党建設上の日和見主義」として批判した。
しかし、それらは、本来なら現実によって検証されるべき仮説である。ところが、それを「日和見主義」と位置づければ、何が事実に合っているかという問題から、どちらの態度が党員として正しいかという問題に移ってしまう。
問題は現在の党勢拡大運動にも通じる
この問題は、現在にも通じている。2026年総選挙で日本共産党は重大な後退を喫した。その総括で党は、中央の活動上の弱点も認めながら、後退の最大の要因を「党の自力の不足」に求め、「強く大きな党」をつくることを中心的な教訓とした。その後も「集中期間」「飛躍期間」と党勢拡大の運動が繰り返し提起されている。
党員や読者が減ったから支持が減ったという説明だけでよいのか。むしろ、なぜ支持が減り、その結果として党員や読者も減っているのかを検討すべきではないか。党勢拡大を繰り返す前に、政策、組織運営、社会との関係そのものを検証する必要があるのではないか。また、党の現実の力量を無視して活動量を増やすのではなく、「身の丈にあった活動」を考える必要もあるのではないか。
本ブログでもこのような問題を指摘してきたが、これは、まさしく「またか論」「かべ論」「段階論」と分類されるに違いない。
現状認識の違いを「かべ論」とする。活動の優先順位についての違いを「段階論」とする。同じ運動の反復への疑問を「またか論」とする。本来検証されるべき異論が、「克服すべき消極性」に置き換えられる構造は、その後の理論論争にもみられる。
6 議論を「内容」から「人格・姿勢の評価」へ飛躍させる歴史
宮本顕治が党指導部の中心にあった時代には、「新日和見主義」「自由主義」「分散主義」「分派主義」といった言葉が、党内の異なる傾向を批判する際に繰り返し使われた。田口富久治の民主集中制論をめぐっても、単なる組織論上の見解の違いではなく、「分散主義」として批判された。
不破哲三による田口批判では、この論法がさらに理論化された。田口理論は「分散主義的、解党主義的」とされ、その研究そのものについても、「反動反共勢力の日本共産党攻撃に触発された」「反共派の論調と驚くほどの接近をみせている」と評価された。
ここで注目したいのは、理論の内容だけが批判されているのではないことである。ある主張が正しいか、事実に合っているかという論争から、その主張が「日和見主義」なのか「分散主義」なのか、さらには外部の「反共勢力」とどのような関係にあるのかという評価へと議論が移っている。
こうした批判の方法は、その後も消えていない。
筆坂秀世氏の離党後の著書に対して、不破氏は「ここまで落ちることができるのか」と書き、志位氏も「落ちるところまで落ちた」と述べた。党機関紙では「転向者、変節者」という表現も使われた。
近年の松竹伸幸氏をめぐっても、「異論を持っているからではない」と説明する一方で、「党攻撃」「分派活動」「政治的変節」「攪乱者」という言葉によって、その言動全体が位置づけられた。
第29回党大会での大山奈々子氏の発言への対応にも、同じ問題を見ることができる。「発言の姿勢に根本的な問題がある」「党員としての主体性を欠き、誠実さを欠く」「節度を欠いた乱暴な発言」といった批判は、発言内容の是非だけでなく、発言者の姿勢や党員としてのあり方にまで評価を広げている。
もちろん、これらの事例は時代も事情も異なり、すべてを同一視することはできない。しかし、半世紀ほどの時間を通して見ると、一つの共通した特徴が見えてくる。
異論の内容を論理的に批判するだけでなく、それを「日和見主義」「自由主義」「分散主義」「解党主義」「党攻撃」「変節」などの政治的カテゴリーに位置づけ、場合によっては異論を述べた人自身の姿勢や人格的評価にまで批判を広げるという特徴である。
7 「批判の型」と「幹部選抜」が結びついた結果の同質化
問題は、言葉が厳しいことだけではない。この批判方法が、組織の選抜の仕組みと結びつくことである。ある認識が「日和見主義」「分散主義」「党攻撃」と評価されれば、その認識を持つ党員は、正式な処分を受けなくても、それを公然と主張しにくくなる。
異なる認識を持つ人は、正式に排除されなくても、自ら発言を控えるか、指導機関へ進む過程で選ばれにくくなる。逆に、現在の方針や評価基準を共有する人ほど、幹部として育成されやすくなる。
その構造は、第29回党大会で示された中央役員の選出基準に具体的に表れている。
大会で承認された「中央委員会の選出基準と構成について」は、次期中央委員会について、「綱領と第29回党大会決定を全党に徹底し、実践する気概と責任をもつ同志たち」によって構成するとした。さらに、「中央委員会の革命的伝統と理論・政治的水準を継承・発展」させることを求め、「試されずみの幹部」と「若い将来性のある幹部」を結合することを、党の一貫した幹部政策として確認している。
もちろん、政党の指導機関に、綱領や大会決定を実行する責任を求めること自体は当然である。また選出基準には「品性、能力、経歴を客観的、総合的に評価する」とも明記され、女性や若い幹部の登用も重視されている。
問題は、それとは別のところにある。
- 「試されずみ」とは、何によって試されるのか。
- 「理論・政治的水準」とは、誰の評価基準によって判断されるのか。
- 「確固たる路線を継承・発展」させる人材として、現在の路線に根本的な疑問を提起する党員が選ばれる可能性は、どの程度あるのか。
しかも、その候補者を推薦するのは現在の中央委員会自身である。第29回党大会では、中央委員候補190人のうち164人が現職中央委員からの継続推薦だった。比率にすれば約86%になる。また60人を超える中央役員が退任を希望したが、党側が個別に面談して慰留し、多くが退任希望を撤回したことも報告されている。
これは、それ自体が異論の排除を証明するものではない。しかし、現在の指導部が次の指導部候補を評価し、「試されずみ」の幹部を中心に推薦し、その際に現在の「路線の継承・発展」を重要な基準とするのであれば、指導部の継続性が強くなるのは制度上当然である。
ここに、単なる人事の継続以上の問題がある。継承されるのは人だけではない。何を正しいとし、何を誤りとみなし、誰を幹部として評価するかという基準そのものが継承される。
宮本、不破、志位へと続く長期の党運営を見るとき、検討すべきなのは個々の指導者の性格ではない。この異論への対応様式と評価基準が、世代を超えてどのように継承されてきたのかである。
現在の指導層が次の指導層を育成し、推薦し、その過程で同じ評価基準が継承されるなら、長い時間のなかで異なる認識は少しずつそぎ落とされていく。半世紀にわたりこの過程が繰り返されれば、生まれるのは、異論が排除される以前に、意思決定層そのものが『同質化』し、そこから異論が生まれにくくなる組織である。
「百年の歴史」を誇る党の強固な統一は大きな力になってきた。しかし、その強さをつくった仕組みが同時に、異なる認識を内部から減らし、理論形成の多様性を弱めてきた可能性も検証する必要がある
8 理念を共有しながら異論を保障できるか
何に一致していれば「同じ政党」なのか
ここまでの議論に対して、当然の反論がある。異論を自由に組織化し、派閥まで認めれば、党がばらばらになるのではないか。党の理念がぶれるのではないか。科学的社会主義を基礎とする党ではなくなるのではないか。
これは避けて通れない問題である。しかし、その前に問うべきことがある。何に一致していれば、同じ政党なのか。すべての政策、すべての情勢認識、すべての理論解釈について一致していなければ、同じ政党ではいられないのか。
そうではないはずである。「民主主義、平和、社会的平等、資本による支配の克服、人間の自由な発展」といった基本理念を共有することと、「安全保障政策、社会主義への移行像、組織論、選挙方針、指導部の評価」まで同じ認識を持つこととは別である。
「理念の共有」と「認識の統一」を区別する
「理念の共有」と「認識の統一」を区別する必要がある。科学的社会主義を「科学」として考えるなら、なおさらである。科学は、結論を固定することによって科学であるのではない。仮説を事実によって検証し、誤りがあれば修正できることによって成り立つ。
マルクス自身の理論も、後世の誰かが完成した体系として守るためにあるのではなく、現実を分析するための方法として読み直されるべきだろう。その意味で必要なのは、理念を捨てることではなく、理念を更新可能なものとして扱うことである。
異論を制度として保障する5つの組織改革
そのためには、組織の仕組みも変える必要がある。
第一に、規約上の「派閥・分派」の全面禁止を見直す
「秘密裏に党を分裂させる組織活動」と、「公開された政策・理論グループ」を同じものとして扱う必要はない。
むしろ異なる意見を持つ党員が、公開されたルールのもとで共同研究し、提案をまとめ、党員に支持を求められる制度を設けた方がよい。派閥・分派を単に「黙認」するのではなく、政策集団・理論潮流として制度的に保障することも検討すべきである。
第二に、「決定後も議論を続ける」ことを明確に保障する
決定された選挙方針や議会行動には従う。しかし、その決定の妥当性について議論し続け、次の大会で変更を求めることは自由にする。これによって「行動の統一」と「認識の統一」を分離できる。
第三に、指導部選出を多元化する
党首公選を導入し、複数候補が党の路線、組織改革、政策を公然と競う。その際、敗れた側を組織的に排除せず、中央委員会や各種委員会にも複数の立場が反映される仕組みをつくる。
党首公選だけ導入しても、委員会が一つの認識だけで構成されれば意味は限定される。指導機関そのものの多元化が必要である。
第四に、規律問題へは第三者機関を設置する
現行規約には規律委員会や再審査制度があるが、規律委員も中央委員会が任命する。指導部と対立した党員の処分を審査する制度である以上、一定の独立性を持つ第三者的な審査機関を設けることを検討してよい。
第五に、過去の除名・除籍について再検証する
現行規約にも被除名者が中央委員会や党大会に再審査を求める制度はある。ここで提案しているのは、それとは別の、組織改革後の原則にもとづく体系的な再審査である。
分派の定義、公開批判の扱い、党内民主主義そのものを変更するのであれば、旧来の基準によって行われた処分をそのまま残すのは整合的ではない。
本人が希望する場合には再審査を行い、処分理由が新しい原則では成立しないと判断される場合には、処分の撤回、名誉回復、復党を認める。長い年月が経過し事実認定が困難な事例については、一定の恩赦的措置を含めて検討してもよい。
これは過去の判断をすべて誤りと認定することではない。新しい組織原則を過去にも照らし、その原則に党自身が責任を持つということである。
おわりに――問われているのは「異論の有無」ではない
日本共産党の規約には、党員の意見表明権が明記されている。民主的討論も多数決もある。意見の違いによる組織的排除も禁止されている。
したがって、「共産党には異論が存在しない」と単純に批判するだけでは、問題の核心には届かない。問われるべきなのは、その次である。
- 異論を持つ党員同士がつながれるのか。
- 異論を共同で研究できるのか。
- 党員全体に別の選択肢として提示できるのか。
- その立場を維持したまま党大会代議員や中央委員になれるのか。
- 異なる認識を持つ複数の潮流が指導部の内部に共存できるのか。
- そして、その競争を通じて党の理論そのものを更新できるのか。
ここまで保障されて初めて、異論は理論形成の回路になる。社会については複数政党制、言論の自由、多数者による政治を掲げながら、党内部では異なる認識の組織化を認めない。その違いには、改めて説明が必要だろう。
社会の方が、政党内部よりはるかに大きな利害対立を抱えている。それでも社会は、異なる立場が存在したまま民主主義を運営することをめざしている。政党内部でも、一定の理念を共有しながら複数の認識が共存する仕組みは可能なはずである。
むしろ今後重要になるのは、「正しい理論を守る党」から、異なる認識を競わせながら、より妥当な理論をつくり続ける党へと変わることではないか。
これは、科学的社会主義を弱めることではない。むしろ、マルクスを完成された教義として固定するのではなく、現実を批判的に分析し、新しい事実によって自らの認識を検証し続ける方法として受け継ぐことにつながる。
本連載で「マルクス・リバイバル」として考えてきたのも、過去の理論に戻ることではなく、この批判と検証の精神を現代に取り戻すことだった。
理論を更新するには、異論が必要である。そして異論を理論形成の力にするためには、異論を言う権利だけでなく、異論が共有され、競争し、熟成され、理論形成の中枢まで生き残る仕組みが必要なのである。
それは党内民主主義の問題であると同時に、科学的社会主義を真に「科学」として発展させていくための条件でもある。
(完)
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