執筆者:ジョン・ベラミー・フォスター(1953年生まれ) アメリカの社会学者、マルクス主義研究者。オレゴン大学名誉教授で、社会主義系雑誌『マンスリー・レビュー』の編集者。マルクスの思想に含まれるエコロジー的視点を再評価し、人間と自然の「物質代謝の亀裂」という概念を軸に、資本主義と環境危機の関係を研究してきた。主な著書に『マルクスのエコロジー』などがある。
農業の発展を、収穫量が増えたかどうかだけで判断してよいのだろうか。現在の収穫量が増えても、土壌がやせ、将来の生産が難しくなるなら、その発展には問題がある。本論考では、「人々を養いながら、農地の豊かさを次の世代に残せる生産になっているか」という問いを軸に本章を読みたい。
以下では、本章で紹介されるマルクスの記述と、それに対するフォスターの解釈を確認する。そのうえで、斎藤幸平氏の脱成長論、日本共産党綱領との接点について考察する。
1.マルクスは自然の限界を軽視していたのか
フォスターは、マルクスが長い間、生産力の発展を重視する一方で、自然の限界を軽視した思想家だと評価されてきたと説明する。そして、その評価に異議を唱える。マルクス自身の著作には、自然破壊への批判が含まれており、それは彼の資本主義批判の重要な部分をなしている、というのがフォスターの主張だ。
その根拠の一つとして、フォスターが取り上げるのが、化学者リービッヒによる農業批判と、それを受けたマルクスの考察である。
2.土壌の養分循環と「物質代謝の亀裂」
リービッヒは、当時のイギリスの農業を、土壌から養分を奪う仕組みだと批判した。窒素・リン・カリウムなどの養分は、作物に吸収され、食物や繊維として農村から都市へ運ばれる。しかし、それらは農地に戻らず、都市で汚染物質として排出される。その結果、農村では地力が失われ、都市では汚染が生じる。イギリスは、失った養分を補うために、ペルーからグアノなどの肥料を輸入していた。
フォスターによれば、マルクスはこのリービッヒの批判をもとに、人間と自然の「物質代謝の亀裂」を論じた。人間は、生産や消費を通じて、自然と物質をやり取りしている。その循環を資本主義的な生産が壊してしまうという問題である。
『資本論』で、マルクスは、資本主義的生産が技術や生産の組織を発展させながら、富の源泉である土地と労働者を破壊すると述べている。また、現在の社会は土地の絶対的な所有者ではなく、土地を改良して次の世代に伝える立場にあるとも述べている。これらは、自然の維持と将来世代への責任を、マルクス自身が明確に論じていたことを示す記述である。
フォスターは、こうした記述から、マルクスの社会主義像を読み解く。その解釈によれば、社会主義の課題は、生産物を平等に分けることにとどまらない。生産に携わる人々が共同で、人間と自然の物質のやり取りを合理的に管理し、暮らしの条件を持続させることも含まれる。
3.ある地域の豊かさが、別の地域の自然を損なっていないか
ここまでの議論を踏まえると、農業の発展を評価する基準そのものを問い直す必要があるのではないだろうか。肥料を外から持ち込み、当面の収穫量を維持できたとしても、それだけで自然との関係が持続可能になったとはいえない。どこから養分を得て、その利用が他の地域に何をもたらし、使われた養分がどこへ行くのかまで見る必要がある。
この問題は、フォスターが論じる「生態学的不等価交換」にもつながる。ある地域で生産を拡大し、豊かさを享受していても、そのために別の地域の自然が収奪され、土地の豊かさが失われているかもしれない。イギリスによるグアノの輸入やアイルランドの土壌の収奪は、その歴史的な例である。生産の成果を評価するには、その地域だけでなく、他の地域の自然や生活条件に与える影響も考えなければならない。このように考えることが、フォスターの紹介する農業の例を、現在の問題として受け止める一つの方法だろう。
4.利益が出ていても、環境は破壊される
この考察に関わるのが、環境危機と経済危機を区別するフォスターの説明である。フォスターは、バーケットの研究を踏まえ、マルクスの議論には、資源不足によって企業の費用が増す危機と、人間の生存を支える環境そのものが損なわれる危機との区別があると論じる。環境破壊の損失が企業の負担にならなければ、自然が傷ついても資本の蓄積は続きうる、というのである。
この説明から、利益や経済成長だけでは生産の望ましさを判断できないのではないか。利益が出ていても、土地がやせ、水が汚れ、将来の生活条件が失われることはある。また、生産の成果は、人々の必要を満たしたか、労働者を消耗させなかったか、自然の回復を妨げなかったかという点からも評価されなければならない。
ここで区別しておきたいのは、生産の拡大そのものと、資本の蓄積を目的とした生産の拡大である。食料が不足している社会で収穫量を増やすことには、人々の生活を支えるという重要な意味がある。問題は、生産量を増やすこと自体ではなく、何のために、どのような方法で増やすのかということである。資本の蓄積を優先するあまり、労働者や自然を犠牲にするなら、その生産のあり方が問われなければならない。
5.斎藤幸平「脱成長論」との接点――問われるのは生産の目的
このことは、斎藤幸平氏の脱成長論とどのような接点があるのだろう。斎藤氏が重視する、経済規模の拡大そのものを目標とせず、人々の生活を支えることを優先するという方向は、フォスターが描く、共同体の必要と自然の持続可能性に根ざした社会像と重なるのではないだろうか。
しかし、経済成長を社会の目的としないことと、経済規模の縮小を積極的に目指すことは同じではない。同章は、経済規模を縮小すべきかどうかを直接論じていない。また、引用されたマルクスの記述だけから、マルクス本人を現代的な意味での脱成長論者とも言えない。
人々の生活を支え、自然との関係を持続可能なものにするためには、どの分野で生産を増やし、どの分野で減らす必要があるのか。経済全体の規模を縮小することが必要なのか。これらは、フォスターの議論から直ちに結論を出せる問題ではなく、さらに検討を要する課題である。
この章から読み取れるのは、生産の拡大そのものではなく、人々の生活と自然の持続可能性を基準に、生産のあり方を判断するという視点である。マルクスは土地を次の世代に引き渡す責任を論じ、フォスターはそこに、人間と自然の関係を持続可能なものへ変える社会主義の構想を見いだした。この点に、斎藤氏の脱成長論との接点があるのではないだろうか。
6.生産力の発展を何で評価するのか――日本共産党綱領との関連
日本共産党の綱領は、生産手段の社会化によって利潤追求から生活の発展へ転換し、生産力の飛躍的発展を展望する。では、その発展を何で評価するのか。フォスターの議論は、生産量だけでなく、人々の生活と自然の持続可能性を基準にする視点を示している。

