一番初めの読解ノート①でこの章について述べた。
その後、いくつかの章を読んでいく中で、マルクス・リバイバルの各章が、マルクスやマルクス主義の再検討や見直し、新たな提言について論じていることが明確になってきた。
それをふまえて本章を再読してみると、初めの論考は実に不十分に思えてきたため、改めて、本ノートの補足をして、本章を紹介し直したい。
はじめに
近年、マルクス本人の著作を改めて読み直し、20世紀に形成された硬直的な「公式マルクス主義」から距離を取りながら、その現代的意義を再検討する「マルクス・リバイバル」の潮流が国際的に広がっている。
日本においても、日本共産党の志位和夫議長は2026年元日の『しんぶん赤旗』新春対談において、マルチェロ・ムスト教授を迎え、同教授編著『マルクス・リバイバル』について議論した。その中で志位氏は、同書を通読した感想として「とくに共産主義論について、私たちの見解ときわめて近いものがある」と述べ、ムスト氏もまた多くの共通点を認めている。
しかし、同書第3章「民主主義」においてエレン・メイクシンス・ウッドが展開している議論を検討すると、その問題提起は単なるマルクスの再評価にとどまらず、近代民主主義そのものの理解を問い直す内容を含んでいる。本稿では、ウッドの民主主義論の核心を整理したうえで、日本共産党の民主主義論や変革戦略との関係について考察したい。
ウッドが問い直す「標準的なマルクス主義」の民主主義批判
ウッドは議論の出発点として、エルネスト・マンデルに代表される「標準的なマルクス主義」によるブルジョア民主主義批判を紹介する。その要点は、ブルジョア民主主義が形式的な権利を保障していても、富や階級権力の不平等によって政治的帰結が左右されるため、本質的に不完全であるというものである。
ウッドはこの批判そのものを否定しているわけではない。むしろ、それがマルクス主義の伝統的理解を適切に要約していることを認めている。しかし彼女は、それだけではマルクスの独自性を十分に説明できないと指摘する。
富が政治に影響を与えることや、経済格差が政治的不平等を生み出すことは、今日では自由主義的政治学や社会学においても広く認識されている。もしマルクス主義の独自性がそこにしかないのであれば、現代民主主義を理解するためにマルクスを読む意味は限定的になってしまう。
ウッドが問い直そうとするのは、むしろ次の問題である。
なぜ近代民主主義は、普通選挙や市民的自由を拡大しながらも、私的所有や経済的不平等、階級支配を根本から脅かさずに維持し続けることができるのか。彼女は、この問いこそがマルクスの真の問題意識であったと考える。
資本主義の核心――政治と経済の形態的分離
ウッドによれば、マルクスの最大の洞察は、資本主義において初めて「政治的なもの」と「経済的なもの」が形態的に分離したことにある。
古代民主主義や封建社会では、政治的権力と経済的支配は直接結びついていた。支配階級は政治的特権を通じて地代や租税を徴収し、搾取を実現していた。そのため、被支配階級が政治的権利を獲得することは、そのまま支配階級の経済的権力を制限することを意味していた。
ところが資本主義では事情が異なる。資本家は労働者を法的・政治的に支配する必要がない。労働者は、形式上は自由で平等な市民として存在しながら、生産手段を持たないために労働力を市場で売らざるを得ない。ここに資本主義特有の支配構造が成立する。
政治的領域では市民の平等が保障される一方で、経済的領域では市場の強制と資本の支配が維持されるのである。この構造によって、民主主義は政治領域に限定され、経済領域は民主主義の外部に置かれることになる。
民主主義の限界とは何か
ウッドの議論において重要なのは、民主主義の限界を単なる政治腐敗や財界支配の問題として理解していない点である。問題は、「誰が政治権力を握るか」だけではない。そもそも政治権力が及ぶ範囲そのものが限定されているのである。
たとえ普通選挙が実現し、民主的政権が成立したとしても、企業は利潤を確保し続けなければならず、労働者は生活のために労働力を売らざるを得ない。このように、市場で生き残るために人々や企業が従わざるを得ない競争と蓄積の圧力を、ウッドは「市場の命法(market imperatives)」と呼ぶ。
彼女によれば、政治的民主主義が実現しても、この市場の命法が支配する経済領域はなお存続するため、政治権力を獲得しただけでは職場におけるヒエラルヒーや市場の強制を自動的に民主化することはできない。したがって民主主義の問題は、政治制度を誰が運営するかだけでなく、民主主義がどこまで適用されるのか、その範囲そのものに関わる問題として理解されなければならないのである。
日本共産党との共通点と相違点
日本共産党もまた、大企業や財界の影響力によって民主主義が制約されていることを批判している。また、将来社会においては生産者が主人公となり、人間の自由な発達が保障される社会を目指すとしている。この意味で、資本主義の矛盾を克服しようとする方向性そのものには共通点がある。
しかし、変革の戦略と民主主義の捉え方には違いも見られる。日本共産党は、議会制民主主義、複数政党制、選挙による政権交代制を将来社会においても維持すると明言している。また、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線を採り、現実政治においては法規制や労働ルールの整備、社会保障の拡充などを重視している。
これに対してウッドの問題提起は、より根本的なものである。彼女は、政治的民主主義をどれほど発展させても、経済領域が市場と資本の支配に委ねられている限り、民主主義は本質的な限界を抱え続けると考える。そのため、国家権力の掌握や政策改革だけでは不十分であり、経済領域そのものを民主主義の対象とする必要があると主張するのである。
民主主義の再定義と脱商品化
ウッドは、民主主義を国家権力の監視や選挙制度の問題に限定してはならないと考える。彼女にとって民主主義とは、権力が行使されるあらゆる領域において、人々が実質的な統制力を持つことである。したがって課題は、国家の民主化だけではなく、市場の支配から人間生活をできるだけ解放することである。
彼女はこれを「脱商品化」という方向で示している。教育、医療、福祉、住宅など、人間の基本的生活条件が利潤追求の論理によって左右されない領域を拡大していくこと。さらに、職場や経済活動そのものに民主主義的原理を適用していくこと。これがウッドの考える民主主義の拡張である。
おわりに
ウッドの民主主義論の意義は、マルクスを「民主主義の否定者」としてではなく、民主主義の限界を批判し、その射程を社会全体へと広げようとした思想家として再評価した点にある。彼女は、自由や権利、議会制民主主義の価値そのものを否定しているのではない。むしろ、それらの歴史的成果を認めたうえで、それだけでは経済的支配を克服できないことを指摘しているのである。
この視点から見ると、日本共産党とウッドの間には一定の共通基盤が存在する一方で、国家・議会・市場をどの程度信頼するのかという点で重要な違いも存在する。未来社会の理想像については重なる部分があるとしても、その実現に至る道筋や民主主義の理解においては、両者の間に無視できない理論的距離があると言えるだろう。
そして、まさにその距離の検討こそが、『マルクス・リバイバル』第3章が今日の読者に提起している重要な論点なのではないだろうか。
