はじめに
日本共産党の志位和夫議長による全国学者研究者講演会での北米訪問報告は、同党の外交方針と「科学的社会主義」の現代的生命力を、学術・運動の両面からアピールする内容となっている。とりわけ、アメリカ民主的社会主義者(DSA)との間で「公式な連帯関係」を確立し、政策や理念の面で深い一致を見いだしたとする点には大きな比重が置かれている。
しかし、政治的成果を示す報告という性格上、共通点が強調される一方で、両組織の間に存在する構造的差異や戦略的相違、さらには相互の文脈の違いが十分に検討されているとは言い難い。本稿では、組織形態、安全保障政策、未来社会論の3つの観点から、この「一致」の語られ方を批判的に検討する。
組織形態と選挙戦略をめぐる構造的差異
報告では、戸別訪問(ノッキング)や街頭対話(テーブリング)など、DSAの運動スタイルに対する強い共感が語られている。しかし、選挙戦略と組織形態の根本構造には大きな違いが存在する。日本共産党は、100年以上の歴史を持ち、独自の規約・機関紙・財政基盤を備えた中央集権的な独立政党である。一方、DSAは、アメリカの二大政党制の下で、民主党系候補への関与を重視しながら活動する、比較的緩やかなネットワーク型の左派運動体である。
DSAの実践は、「民主党系政治家を通じて社会改革を拡張する」というアメリカ特有の政治構造の上に成立している。それに対し、日本共産党は独立政党としての継続性と組織的一体性を重視してきた。したがって、双方が共通の戦術を採用しているとしても、それを支える政治構造や権力への接近方法は大きく異なっている。運動手法の類似性をもって両者の戦略的一致を強調することには、一定の限界があると言わざるを得ない。
外交・安全保障政策における文脈の非対称性
報告では、DSA綱領に見られる「US war machine(US戦争マシン)を終わらせる」「外国軍事基地の撤去」といった主張が、日本共産党の日米安保廃棄・米軍基地撤去方針と強く響き合っているとして紹介されている。しかし、そこには「帝国中心国家の国内左派」と「対米従属からの脱却を掲げる日本の左派政党」という立場の違いから生じる、文脈の非対称性が存在する。
DSA側の反基地・反軍事費論は、主として「軍事費を削減し、その財源を医療・教育・住宅支援へ振り向ける」という国内再分配政策の文脈に基づいている。これに対し、日本共産党の基地撤去論は、「対等平等の日米関係」「主権回復」という外交・国家主権の文脈に強く結びついている。したがって、同じ「基地撤去」という表現を用いていても、その政治的意味内容は必ずしも同一ではない。
また、志位氏は「DSAが政権につけば沖縄を始め日本の米軍基地の全面撤去の道が開かれる」と展望している。しかし現実政治において、DSAは民主党政権内部で限定的な影響力を持つ一潮流(左派プラットフォーム)であり、アメリカの国家安全保障政策全体を左右できる立場にはない。その意味で、この「一致」の強調には、現実政治上の制約を相対的に軽視し、象徴的・理念的側面を前面に押し出しているきらいがある。
「自由時間」をめぐる未来社会論の差異
志位議長は、マルクス本来の「自由に処分できる時間(ディスポーザブル・タイム)」の拡大こそ社会主義の本質であるとして、DSAや『ジャコバン』誌との理論的一致を高く評価している。しかし、この概念をめぐっても、両者には理論的位置づけや受容文脈の違いが存在する。
日本共産党において「自由時間論」は、旧ソ連型社会主義との差異化を図る重要な理論課題として位置づけられている。すなわち、「物質的分配中心主義」を超え、人間の全面的自由の拡大を社会主義の本質とする再定義であり、党の理論的アイデンティティそのものとも結びついている。
これに対し、DSAやアメリカ左派における「自由時間」への関心は、過酷な労働環境やギグエコノミー(短期請負経済)への反発という、現代資本主義への生活実感的抵抗の側面が強い。そこでは、「働きすぎからの解放」という実存的な要求が先行しており、マルクス理論はその経験を説明・正当化するための理論資源として用いられている。したがって、同じ概念を共有しているように見えても、その思想的重心や理論的意味づけには明確な差異がある。
組織文化を映し出す「鏡」として
日本共産党とDSAは、新自由主義批判、格差是正、反戦といった大きな方向性では一定の共通性を持っている。しかし、その組織原理、国家権力への接近方法、安全保障観、さらには社会主義理論の位置づけには、なお大きな差異が存在する。
志位氏の北米訪問報告は、そうした差異よりも「一致」を強く前面化し、自党の理論的・国際的正当性を示す材料としてDSAとの関係を位置づけた側面を持つ。その意味で、この報告は単なる外交報告にとどまらず、国内向けの政治的・思想的アピールとして読むことができる。
もちろん、国境を越えた左派連携そのものを否定する必要はない。しかし、異なる歴史的条件と政治構造の下で形成された運動を、単純な「共鳴」として整理するだけでは、その内実にある差異や緊張関係を十分に捉えた分析にはならないだろう。
さらに今回の報告で印象的だったのは、DSAとの「自由で双方向的な議論」そのものが高く評価されていたことである。講演のまとめでは、全国学者・研究者日本共産党後援会事務局長の萩原伸次郎氏が、
つまり意見の違いということで自分だけが正しいという言い方をしないで、いや、あなたの言っていることはまあそうでしょう。私たちはこう考えます、という交流を進めながら運動を進めていくという、こういう立場に日本共産党が立てる、(略)私たちにその勇気を与える、そういうご講演であったという風にまとめたい
と述べて、相違を抱えながらも対話を継続する政治文化への期待を語った。この発言は、今回の北米訪問の中でも特に重要な意味を持っているように思われる。なぜなら、それは単なる国際交流の成功を称賛した言葉ではなく、日本共産党自身が今後どのような政治文化を目指すべきかという方向性への期待を含んでいるからである。
異なる歴史的条件、国家構造、政治制度の下で形成された運動を、抽象的理念の一致だけで「共鳴」として描くならば、それは具体的歴史条件から社会を分析するというマルクス本来の方法からむしろ後退する危険を含んでいる。マルクス自身、晩年にはロシアや非西欧社会の研究を通じて、歴史発展を単線的に捉える立場から距離を取り、各社会の固有条件を重視する方向へ進んだことが、マルクス・リバイバルでも明らかになっている。
だとすれば、本来必要なのは理念的一致の演出ではなく、それぞれの運動が置かれた政治構造と歴史的文脈の差異を冷静に分析することではないだろうか。その意味で、今回のDSA交流は、日本共産党にとって単なる外交的成果や国際連帯の確認にとどまらず、自党の組織文化そのものを映し返す「鏡」としての意味を持っていたように見える。
今後の展望:日本共産党への変革の期待
志位氏自身、DSA側の自由で双方向的な討論、参加者全員が率直に発言する雰囲気、他者から学ぶ姿勢に対して、繰り返し驚きと感銘を語っていた。しかし、その驚きが本来向かうべき先は、単に「米国左派の新鮮さ」ではなく、日本共産党自身の組織文化との対比であったはずである。
もちろん、志位氏自身もそのことを全く意識していないとは考えにくい。実際、講演全体には「自由な交流」「学び合い」「双方向性」への強い関心が繰り返し表れている。しかし、その問題意識が、自党内部の討論文化や異論への向き合い方の再検討という形で正面から提起されることはなかった。もし、DSAとの交流から本当に学ぶべきものがあるとすれば、それは運動技術や理論宣伝だけではなく、異なる意見を抱えながらも組織を維持しうる政治文化の可能性そのものだったはずである。
その点に十分踏み込まず、主として「国際的連帯の成果」として処理したところに、今回の報告の限界があると言わざるを得ない。しかし逆に言えば、今回語られた「自由な討論」「双方向的対話」「学び合い」という価値が、日本共産党自身の国内における党内外の議論文化にも広がっていくならば、この北米訪問は単なる象徴的外交にとどまらない、より深い意味を持つ経験となる可能性がある。
その意味で、萩原氏の発言は、今回の訪問に対する評価であると同時に、日本共産党への変革の期待の表明として受け止めるべきものなのかもしれない。

