はじめに:民主的制度があれば民主的なのか
日本共産党の党内民主主義を考えるとき、問題を「民主的な制度があるか、ないか」という二者択一で捉えるべきではない。
現行規約には、「民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」「すべての指導機関は、選挙によってつくられる」とある。同時に、「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」とも定められている。党員には、党の政策や方針について討論し、提案する権利、党の組織や個人を批判する権利、党内で選挙し、選挙される権利も保障されている。
したがって、「日本共産党には党内民主主義がない」と単純に断定することは正確ではない。問われるべきなのは、それらの制度が実際にどのように機能しているかである。
制度とその運用は同じではない。同じ制度のもとでも、誰が指導するか、その政治姿勢や判断によって運用は変わりうる。米国のトランプ政権をめぐる現在の議論も、制度が存在することと、それがどのように運用されるかを区別して考える必要性を示している。
1 「善意」だけで民主主義は保障できない
民主主義を指導者の「善意」に委ねることはできない。必要なのは、誰が指導部になっても一定の基準で判断され、その判断を検証し、誤りがあれば訂正できる仕組みである。
しかし、それだけでも十分ではない。どれほど詳細な規約をつくっても、将来起こりうるすべての事態をあらかじめ規定することはできない。規約には必ず解釈の余地が残り、指導部には一定の裁量が生じる。
だからこそ、民主主義には二つの仕組みが必要になる。一つは、指導部の判断を検証し訂正する仕組みである。もう一つは、その運用自体に問題があると構成員が判断した場合、指導部そのものを交代させられる仕組みである。
2 指導部を交代させられる仕組みがあるか――改革の道、その1
日本共産党には、現行規約のもとでも一般党員から改革を求める制度上の道がある。
党員は支部で意見を述べ、党の政策や方針について討論し、変更を提案することができる。中央委員会に意見を述べ、回答を求める権利もある。組織は基本的に支部―地区―都道府県―中央という形で構成され、党大会に至る過程でも、それぞれの段階を通じて代議員が選ばれる。
党大会は中央委員会を選出し、中央委員会は幹部会委員長、副委員長、書記局長などを選出する。また党大会には、中央委員会の報告の当否を確認し、綱領や規約を変更し、中央委員会を選び直す権限がある。
したがって規約上は、一般党員の意見表明から始まり、綱領、規約、政策、中央委員会、さらには指導部の変更へと至る制度的な道が存在している。
3 制度があることと、実際に可能であることは同じではない
しかし、制度上の通路が存在することと、それを使って実際に指導部を交代できることは同じではない。
現在少数である意見を党の方針にするためには、その意見への支持を広げ、最終的に多数派にならなければならない。指導部を交代させる場合には、なおさら多数派形成が必要になる。しかも一般党員が党大会に至るまでには、支部、地区、都道府県と、何段階もの選出過程を経なければならない。
そこで問われるのは、現在の指導部とは異なる考えを持つ党員が、他の党員と意見を交換し、その支持を広げ、少数派から多数派となり、最終的に指導部を交代させられる実効的な通路があるのかということである。
この点を検討すると、「分派禁止」という問題に行き着く。
4 「分派禁止」という壁
少数意見が多数意見になるためには、党員同士が意見を交換し、支持を広げる過程が不可欠である。しかし、日本共産党の規約は、討論、批判、提案の権利を保障する一方で、「党内に派閥・分派はつくらない」と定めている。
問題は、その両者の境界である。現在の方針に疑問を持つ党員同士が意見を交換することはどこまで認められるのか。同じ問題意識を持つ党員が継続的に議論することはどうか。共同して政策変更を求めたり、現在とは別の指導者を支持したり、その支持を他の党員に広げたりすることはどう位置づけられるのか。
少数派が多数派になるためには、自分の意見を一人で表明するだけでは足りない。他者と議論し、説得し、支持を得る過程が必要である。
ところが、規約には「分派」の具体的な定義が書かれていない。どこまでが正当な党内討論と多数派形成で、どこからが禁止される「分派活動」なのか。その境界が党員にとって予測可能でなければ、形式上は意見表明や選挙の権利があっても、少数意見が多数意見へと成長する過程そのものが制約される可能性がある。
一般党員が正規の手続きを使って改革を進めようとするとき、ここに大きな壁が現れる。
5 指導部内部からの改革――改革の道、その2
一般党員からの多数派形成が困難であるならば、もう一つ考えられるのは、中央委員会や指導部内部から改革の動きが生まれる可能性である。
現在の中央委員や指導部の中にも、党の現状に問題意識を持ち、規約、綱領、政策方針、党運営を再検討すべきだと考える人がいる可能性は否定できない。
現行規約では、幹部会委員長などを選出する権限は中央委員会にある。また、中央委員の3分の1以上が要求すれば、中央委員会総会を開かなければならない。
したがって少なくとも、指導部交代の問題を中央委員会自身が提起し、検討する制度的な余地はある。問題は、そのために必要となる意見交換と多数派形成が、実際にどこまで可能なのかである。
6 指導部内部での多数派形成は認められるのか
中央委員会が多数決で指導部を選ぶ以上、別の指導部を実現するためには、中央委員会内部でも多数派形成が必要になる。
仮に一人の中央委員が、「現在の路線には問題があり、別の人物を委員長にすべきだ」と考えたとする。一人でそう考えているだけでは指導部は変わらない。他の中央委員と意見を交換し、問題認識を共有し、代替する政策や人事を検討し、その支持を広げ、最終的には多数を得なければならない。
ここでも「分派禁止」との関係が問われる。現指導部とは異なる政策や指導者を支持する中央委員が連携し、その支持を広げることは正当な多数派形成なのか。それとも、「分派」を組織していなくても「分派活動」とされるのか。
指導部を選挙する制度がある以上、別の指導部を求める意見を表明し、その支持を広げることがどこまで認められるのかは明確でなければならない。そうでなければ、形式上は選挙が存在しても、実質的な選択肢を形成することができない。
現指導部とは異なる指導部が必要だと考え、その交代を正当な権利として主張することまで制限されるのであれば、指導部選挙そのものの実効性が問われる。
7 指導部が変われば、同じ規約の運用も変わりうる
規約とその運用を区別して考えるならば、指導部交代そのものが制度改革の契機になる可能性もある。
同じ規約であっても、その解釈や運用は指導部によって変わりうる。現在の指導部が、ある党員間の連携を「分派活動」と判断したとしても、将来の別の指導部が、「それは規約が保障する討論、批判、意見表明の範囲であり、従来は分派禁止を広く解釈しすぎていた」と判断する可能性はある。
また、新しい指導部が、従来の運用は「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」という規約上の原則との均衡を失っていた、と評価することもありうる。
つまり、改革の道は「制度改革→指導部交代」という一方向だけではない。「指導部交代→従来の解釈・運用の再検証→制度改革」という経路も考えられる。
だからこそ、指導部を交代させられる可能性そのものが重要なのである。
8 指導部交代は改革の完成ではなく入口である
ただし、改革的な指導者に交代すれば、それですべてが解決するわけではない。指導部交代は改革の完成ではなく、制度改革を可能にする入口である。
新しい指導者も間違える。現在の運用を改革した指導部であっても、将来、別の問題で硬直した判断をする可能性はある。
だから、新しい指導部のもとで必要なのは、単に従来の判断を覆すことではない。規約や綱領、政策方針を再検討するとともに、異論の保障、分派概念の明確化、情報公開、処分や判断を独立して再検討できる仕組み、指導部選出のあり方などを制度として整えることである。
そして次からは、改革的な指導者の「善意」に頼らなくても、判断を検証し、誤りを訂正し、必要なら指導部そのものを交代させられるようにする。
そこまで進んで初めて、改革は制度として定着する。
9 「50年問題」の教訓
この問題を考えるうえで、50年問題は避けて通れない。日本共産党自身が、現在の民主集中制や分派禁止を説明するとき、50年問題を重要な歴史的教訓として位置づけているからである。
党は、50年問題を克服する過程から、党の統一と団結、集団的指導、党内民主主義とともに、分派主義・派閥主義を許さないことを重要な教訓として引き出している。
確かに、50年問題では党が深刻な分裂状態に陥った。その背景には、スターリン、ソ連、中国共産党による重大な外部干渉があり、党自身の歴史叙述でも、徳田・野坂分派がその干渉に組み込まれ、党の分裂と武装闘争路線につながったとされている。
この経験から、党の分裂を防ぎ、外部勢力による介入を許さないという教訓を引き出すことには理由がある。
しかし、この歴史と、現在の党内で党員が自律的に異論を共有し、党内の正規の手続きによって多数派形成を目指すことを単純に同一視することはできない。
10 「50年問題」のもう一つの教訓は何か
50年問題には、分派禁止とは別の重要な教訓もある。党自身が、当時の反民主的な党運営を分裂の原因の一つとして認めているからである。
党の100周年記念講演では、50年問題に至った「大きな根の一つ」として、当時の党内にあった反民主的な気風が挙げられている。とりわけ、徳田球一書記長の専決による指導が人事を含めて支配的となり、徳田氏の意に沿わない者が排除され、「民主的、集団的な検討」が保障されなかったことが、分裂という最悪の事態に至った原因の一つだったと説明されている。
これは重要な総括である。
50年問題を「分派による党の分裂をどう防ぐか」という問題としてだけ読むのではなく、「誤った指導部や路線を、党自身がどう訂正できるのか」という問題としても読み直す必要がある。
指導部への権力集中や異論の排除によって、誤った指導を内部から訂正できなくなる。その危険もまた、50年問題から引き出される教訓だったはずである。
だとすれば、50年問題から問うべきことは、「どうすれば分派を防げるか」だけではない。「指導部が誤ったとき、党自身がどう訂正するのか」「それでも訂正できないとき、どうやって指導部を交代させるのか」という問題でもある。
11 「統一」と「交代可能性」は両立できないのか
党の統一を守ることと、指導部を交代可能にすることは、本来同じ問題ではない。
もちろん、派閥や分派が恒常的な対立を生み、組織の分裂につながる危険はある。日本共産党が50年問題の経験から党の統一を重視してきたことには歴史的な背景がある。
党は現在の指導部選出方法についても、個人の専断を排し、派閥・分派をつくらず、国民に対して統一的に責任を果たすうえで「もっとも民主的で合理的」だと説明している。また、党首の直接選挙を行えば、候補者が自分を支持する多数派をつくるために活動し、それが派閥・分派の形成につながるとも説明している。
しかし、ここで問われているのは、直接選挙か間接選挙かだけではない。より根本的な問題は、現指導部に代わる多数派を形成することを認めずに、どうやって実質的な指導部選択を可能にするのかという点にある。
多数決で指導部を選ぶ以上、別の指導部を選ぶためには何らかの多数派形成が必要になる。もし、現指導部とは異なる政策や人事を支持する多数派を形成すること自体が「分派」とされるのであれば、形式上は選挙が存在しても、現指導部に代わる選択肢を形成する過程が制約されることになる。
必要なのは、党を分裂させずに、誤った指導部を交代させられる仕組みではないだろうか。
50年問題の教訓も、この観点から検証する必要がある。
12 「誰が正しい指導者なのか」という問題だけではない
民主主義の問題は、「誰を正しい指導者として選ぶか」だけではない。誰が指導者になっても間違いうることを前提に、その誤りを訂正できる仕組みをつくることが重要である。
第29回党大会報告では、「出世や私利私欲のために日本共産党に入る人は一人もいません」と述べられている。しかし、党員の献身性と制度の問題は別である。善意の人も間違えるし、自らの判断を正しいと強く確信している人ほど、異論を退けることもありうる。
この問題は、カール・ポパーの民主主義論とも重なる。ポパーは『開かれた社会とその敵』で、「誰が統治すべきか」という問いよりも、誤った統治者を大きな犠牲なしに交代させられる制度をどうつくるかを重視した。民主主義の重要な意味を、絶対に正しい人物を選び出すことではなく、誤った統治者を平和的に交代させられることに見いだしたのである。
もちろん、ポパーが主として論じたのは国家の政治制度であり、その議論を政党内部にそのまま当てはめることはできない。しかし、「誰が正しいか」よりも、「誰が間違っても訂正し、必要なら交代できるか」を重視する考え方は、党内民主主義を考えるうえでも示唆的である。
必要なのは「正しい指導者」の登場を期待することではない。誰が指導者になっても、その判断を検証し、誤りがあれば訂正し、それでも問題が解決しなければ交代させられる仕組みである。
おわりに
結局、問題の核心は、党員自身が党の現状をどう評価し、必要な改革をどう考えるかという点にある。
指導部も多数派も誤る。だからこそ、「誰が正しいか」を一部の指導者に委ねるのではなく、一人ひとりの党員が自ら考え、議論し、判断することが重要である。
そして、すでに異論を表明し、改革を求め、その結果として除名、除籍、離党に至った党員がいることも忘れてはならない。党内民主主義を考えるとは、これから声を上げる党員の権利だけでなく、これまで声を上げた党員がどのように扱われてきたのかを検証することでもある。
本論考も、そのための一つの問題提起である。現状のままでよいのか。何を変えるべきなのか。指導部のあり方をどう考えるのか。こうした問題について、より多くの党員が自ら考え、意見を交わす契機になればと思う。
党の将来をどうするのか。その判断は、これまで声を上げてきた人々の経験にも学びながら、一人ひとりの党員が自ら考え、決めていくべき問題である。

