『マルクス・リバイバル』読解ノート⑦―第22章「マルクス主義(Marxisms)」(イマニュエル・ウォーラーステイン)――それは未完の批判理論

地政学的変動と連動する「定義」の再構築

マルクス主義とは、単一で固定された思想体系ではない――これが、イマニュエル・ウォーラーステインが本論を通じて最も強調している点である。

筆者は、題名をあえて単数形の「Marxism」ではなく、複数形の「Marxisms」としている。そこには、「マルクス主義」は歴史の中で多様に変化し、互いに矛盾する複数の潮流として存在してきたという認識が込められている。

エンゲルスによる体系化、ドイツ社会民主党の改良主義、レーニン主義、スターリン主義、毛沢東思想、第三世界の民族解放運動、新左翼、フェミニズムや環境運動との結合など、いずれも「マルクス主義」を名乗ってきた。しかし、それらは同一の内容ではなく、しばしば互いに激しく対立してきた。

筆者が重視しているのは、こうした変化が純粋な理論研究の結果として生じたのではなく、ロシア革命、冷戦、1968年運動、ソ連崩壊など、現実の政治的・地政学的変動によって形成されてきたという点である。

つまり、「マルクス主義とは何か」は、抽象理論によって一義的に決まったのではなく、歴史の中で現実政治との相互作用によって作り変えられてきたのである。

「正統」なき適応の歴史と古典の限界

そのため筆者は、「正統的マルクス主義」という考え方自体に懐疑的である。たとえば、第二インターナショナルの社会民主主義は革命を放棄し、国家内部での労働条件改善へ向かった。一方、ソヴィエト型マルクス主義は、「一国社会主義」の下で国家中心主義と党官僚制を強めた。

また、第三世界の民族解放運動は、階級闘争より民族独立を優先する方向へ進んだ。つまり、どの潮流も、それぞれの歴史条件に適応しながら「マルクス主義」を再定義してきたのである。

さらに筆者は、古典的マルクス主義の限界にも強く目を向けている。特に批判されるのは、経済決定論、国家中心主義、単線的進歩史観、そして民族・ジェンダー・文化差異を軽視する傾向である。

1968年以降、フェミニズム、人種差別問題、セクシュアリティ、環境問題などが前景化すると、従来の「階級中心」理論では現代社会を十分に説明できないことが露わになった。そこで、「人種・ジェンダー・階級」を統合的に捉える方向へ理論が変化していく。

必然性の喪失と「社会主義か野蛮か」の選択

特に重要なのは、筆者が「進歩は必然ではない」と考えている点である。かつてのマルクス主義には、資本主義崩壊の後には必然的により高次の社会が到来するという発想が強く存在した。

しかし筆者は、「社会主義か野蛮か」という表現を重視し、未来は保証されていないと考える。資本主義の危機が自動的に解放へつながるわけではなく、環境破壊や社会崩壊へ進む可能性もあるというのである。

現代の危機に立ち向かうための批判的資源

それでも筆者は、マルクスを捨て去るべきだとは考えていない。むしろ、グローバル資本主義、帝国主義、格差拡大、環境危機を理解するために、マルクスの分析は依然として重要な知的資源であると評価している。

ただし、それは教義として盲従する対象ではない。マルクス自身をも批判的に読み直し、新しい現実に応じて理論を更新し続ける必要があると主張している。

つまり本論全体を貫くメッセージは、マルクス主義とは完成された閉じた体系ではなく、歴史の変化の中で不断に再構築される批判理論である、という点にある。そして未来のマルクス主義もまた、過去の教義の反復ではなく、新たな現実との格闘の中からしか生まれないと筆者は考えているのである。

こしてみると、マルクス・リバイバルへの日本共産党のマルクス理解はどうなのだろうか。日本の現時点における理論と政治的メッセージのアップデートが必要ではないのか。

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