日本共産党が自らの目指す社会像として掲げる「共産主義社会」という言葉は、組織の内部においては「資本の論理から解放された自由な人間の共同体」であり「個人の尊厳と自由の開花」を意味する理念として定義されている。
しかし、一般社会においてこの言葉は、受け手の世代、学術的立場、政治的利害関係によって全く異なる文脈で解釈され、多様な、時には拒絶を伴う反応を生み出している。
1. 世代間における認識の違い
冷戦時代を知る世代
第一に、世代間における認識の断絶が挙げられる。
冷戦を同時代の経験として記憶する高齢者層にとって、「共産主義」とは抽象的な概念ではなく、自らの人生の同時代史として存在した具体的な現実である。そこには二つの異なる評価が併存している。
多数を占める否定的・警戒的評価の背景には、冷戦期におけるソ連・東欧の崩壊、毛沢東による文化大革命、カンボジアのポル・ポト政権による大量虐殺、そして国内における学生運動の過激化やあさま山荘事件といった歴史的記憶がある。彼らにとってこの言葉は、「自由の制限」「独裁」「全体主義」というイメージと直結した拒絶の対象となりやすい。
その一方で、かつて高揚した革新自治体運動や、労働運動・学生運動を経験してきた一部の層にとっては、今なお「資本主義に対抗する理念」としての意味を持ち続けてもいる。
ソ連崩壊後に育つ世代
これに対して、1991年のソ連崩壊後に生まれた若年者層における受け止めのあり方は異なる。彼らを取り巻くインターネットやSNSの環境において、「共産主義」という言葉は、政治的な思想としてではなく、一種の「冗談やパロディのネタ」として扱われる傾向がある。
例えば、壮大なソ連の軍歌を動画の背景音楽(BGM)として面白がったり、物品を均等分配した際に「みんな平等だから共産主義だ」と冗談交じりに呼び合ったりする。映画やアニメで「国家に監視された暗い未来社会」として、一種の不条理なギャグとして消費されている側面もある。
一方で、格差社会や就職難、気候変動を経験している彼らは、「資本主義の限界」という問題提起そのものには一定の理解を示す。しかし、その解決策として「共産主義」という言葉を提示された場合、中国・北朝鮮といった近隣国の現在の体制に対する嫌悪感も重なり、結果として「自分たちの現実の生活課題とは距離のある概念」として受け止められることが多い。
2. 学術研究者における立場の違い
第二に、学術界においても、やや断定的に言うならば、その評価は研究対象の領域やアプローチによって以下の違いがある。
政治学や歴史学といった「経験科学」の立場からは、共産主義は主として20世紀に実在したソ連型システム(実在した社会主義)の検証対象として扱われる。
いかにして一党支配が形成され、政治的弾圧や検閲、計画経済の破綻へと至ったのかを実証的に追究する文脈において、この言葉は「国家権力による市民社会の統制」や、その失敗の歴史として記述される傾向が強い。
経済学の領域においては、その対立はさらに明確である。
近代経済学(マクロ・ミクロ経済学)の主流派においては、価格シグナルと市場メカニズムの優位性を前提とするため、共産主義(計画経済)は「情報を一箇所に集約して合理的な計算を行うことは不可能である」という「経済計算論争」において理論的・実践的に破綻した過去のモデルとみなされている。
他方、マルクス経済学や社会思想史の領域では、資本主義の搾取構造、格差、環境破壊を批判するためのツールとして再評価する動き(エコロジー左派やコモン論など)が存在する。ここでは「国家による管理」とは区別された、生産手段の共同管理や労働時間の短縮、人間の全面的発達を目指す「オルタナティブ」として肯定的に基礎づけられている。
3. 政党政治におけるポジショニングの違い
第三に、日本の国政政党間において「共産主義」という言葉は、それぞれのアイデンティティを規定し、あるいは他党を批判するための対比軸として機能している。
保守系政党は、この言葉を「私有財産の否定」「自由主義・民主主義の否定」「伝統や家庭の解体」として位置づける。これは「共産主義=既存の豊かさと自由を損なうもの」という懸念を提示することで、自らの支持層を結束させ、現状の社会秩序を正当化するための枠組みとして機能している。
中道・右派ポピュリズム政党は、これを「昭和の遺物」「古い左翼思想」「現実性を欠いたユートピア」と位置づける。自らの「改革・現実主義」を際立たせるための対比軸としてこの言葉を利用している。
これらに対して、中道左派・リベラル勢力は、この言葉の使用を避ける傾向がある。語る場合でも「我々は自由民主主義と市場経済を大前提とする」と主張する。これは、野党共闘を進める際に、保守・中道層から「共産主義に傾斜するのか」という批判を受けるのを防ぐための防衛策に見える。
こうした状況の中で、日本共産党は、20世紀の独裁国家のイメージから切り離された、モダンで民主的な未来像としてこの言葉を再定義しようとしている。
4. 言葉の多義性とコミュニケーション上のジレンマ
このように、「共産主義社会」という言葉は現代日本において、極めて非対称的かつ多義的な意味空間に置かれている。
党内や支持層にとっては、それは「自由な未来社会の理想」を指す。しかし一歩外へ出れば、高齢層や他党にとっては「20世紀の独裁や破綻の記憶」であり、若い世代にとっては「自分たちの生活課題(家賃、低賃金)とは結びつかない遠い概念」として捉えられている。
ここに、日本共産党のコミュニケーション上のジレンマがある。
党が未来の目標として「共産主義」の理解を広げようと言葉を重ねる行為そのものが、社会の側が持つ既存のフレーム(冷戦の記憶、教科書の知識、政治的バイアス)を呼び起こし、結果として、本来届けたい足元の現実的改革(生活課題への取り組み)へのメッセージを遮断してしまうという構造である。
この言葉の多義性と受け手のリアリズムを前提とせずに理念を運動の入口に据え続けることは、対話を成立させることを難しくし、社会との距離を広げる結果を招きかねない。言葉が社会的に持っている既存のイメージを客観的に見つめ直すことが、この課題を解決するための前提となるであろう。
次回予告 第4回:「教科書が間違っている」とはどういうことか 「選挙ドットコムちゃんねる」の鈴木邦和氏と日本共産党田村委員長の対談動画で、田村委員長は「教科書からして『ソ連が社会主義』って書いちゃう」「おかしいんですよ」と発言した。その真意とその意味を探る。
※本連載の全体像や基本方針は、こちらの案内ページ(共産党研究/連載一覧)をご覧ください。

