はじめに――未来社会は理念だけでは語れない
志位和夫氏は、『資本論』を「導き」に、「生産手段の社会化」によって利潤第一主義と搾取をなくし、労働時間を短縮して自由な時間を拡大することで、「人間の自由で全面的な発展」が実現する社会主義・共産主義を展望する。
しかし、未来社会の理念を示すことと、その実現可能性を示すことは別である。問うべきは、それが21世紀に実現可能であることを何によって説明するのかということである。
この問いを考えるうえで、ソ連の経験は重要だ。以下、その成果と限界を検証し、そこから「生産手段の社会化」と自由な未来社会を考えるための課題を探る。
1 ソ連は未来社会を考える重要な事例である
ソ連を「本当の社会主義だったか」という名称論争だけで処理すべきではない。『マルクス・リバイバル』の編者マルチェロ・ムストは、2026年の志位氏との対談で、ソ連を含む「古い社会主義」の複雑な経験をどう捉えるかを「本質的な問題」として提起している。
さらにムストは、マルクス以前の共産主義思想の問題として、指導者が労働者に代わって決定する発想をあげ、それに対してマルクスの社会主義を「労働者自身による自らの解放」と捉えている。
未来社会研究にとって重要なのは、ソ連が何を実現し、何に失敗したかを制度的に分析することである。国有化や社会保障の存在だけでなく、生産者や市民が実際に社会の意思決定主体となっていたのかを問う必要がある。
2 ソ連の社会保障をどう見るか
ソ連では社会保障制度が一定の成果をあげ、社会権も法的に位置づけられていた。しかし、社会保障が充実していることと、人民が社会の主人公であることは別である。
住宅、保養、保育など多くの社会的サービスが国家や職場を通じて提供・配分された。一方、労働は権利であると同時に義務でもあり、時期によっては転職や欠勤への強い統制もあった。公式労働組合も、党・国家から独立した対抗的な労働組合ではなかった。
社会保障は存在したが、人民が独立した立場から制度や経済運営を下から統御する仕組みは限定されていた。重要なのは、誰が制度を決め、誰が資源を配分し、誰がその決定を変更できたかである。
3 国有化は社会的所有ではない
ソ連では、生産手段の私有が大規模に廃止され、国家所有と計画経済が導入された。しかし、国家所有と社会的所有は同じではない。国家が所有していても、その国家を社会の構成員が民主的に統御できなければ、生産者自身の共同所有とは言えない。
実際には、生産、投資、価格、賃金、資源配分などの主要な決定の多くが党・国家の計画機構に集中した。私有の廃止は、生産者の自己統治を自動的には生まなかったのである。
4 計画経済が生んだ別の権力
ソ連の計画経済は、市場任せではなく社会的な目的に沿って資源を配分することを掲げた。しかし、そこで問題になるのは、その社会的な目的を誰が決めるのかということである。誰が情報を集め、誰が優先順位を決め、誰が計画をつくり、間違いを誰が修正するのか。ソ連では、こうした権限の多くが中央の党・国家機構に集中した。
ソ連では、生産手段の大規模な国有化と中央計画が、一党への政治権力の集中と結びついた。その結果、経済的意思決定も官僚機構に集中し、生産者は主要な意思決定から遠ざけられた。さらに、社会的平等を掲げながら、党・国家の幹部層などには住宅、医療、保養、物資供給などへの優先的アクセスも形成された。
ここから分かるのは、所有形式だけでなく、決定権、情報、資源へのアクセスがどこに集中するかを見なければならないということである。
▇ 文末に「ソ連の社会保障と統治の実態」について補足あり
5 日本共産党はソ連をどう総括しているのか
日本共産党がソ連の経験を総括してこなかったわけではない。党は、スターリン以後の旧ソ連体制を、政治的にも経済的にも「社会主義とは無縁」の体制だったと評価している。
現在の綱領でも、「生産手段の社会化」を単純な国有化とはせず、「所有・管理・運営を社会の手に移す」ものとしている。「生産者が主役」であることを重視し、旧ソ連のような「生産者を抑圧する官僚専制」を再現してはならないと明記している。
経済についても、市場をただちに廃止するのではなく、「計画性と市場経済との結合」を掲げている。政治面でも、議会制民主主義、複数政党制、政権交代制を堅持し、社会主義・共産主義社会でも、反対政党を含む政治活動の自由や思想・信条の自由を保障するとしている。
さらに、未来社会の具体的な形態を現在の段階で固定せず、国民の英知、創意、合意を通じて探究するという立場をとっている。したがって、問題は、これらの原則を党が示していないことではない。
問いたいのは、その原則から、志位氏が語る未来社会の到達点までを本当に導けるのかということである。
6 「生産者が主役」は、どのような制度なのか
「生産者が主役」という原則自体が問題なのではない。問題は、それをどのような制度によって実現するかである。
企業の所有主体は誰なのか。経営者を誰が選ぶのか。労働者は経営にどのような権限を持つのか。国家、自治体、企業、労働者、消費者の権限をどう分けるのか。投資や社会的余剰の配分を誰が決めるのか。ソ連の経験が重要なのは、まさにここである。
ソ連も私的資本を大規模に廃止し、社会的利益を掲げて計画経済を運営した。しかし、主要な決定権は党・国家機構に集中し、生産者が経済運営を自律的に共同管理する体制にはならなかった。
だから、「生産者が主役」という原則を示すだけでは足りない。問われているのは、それを実現する権限配分と統治の仕組みである。
7 「社会的理性」は誰が担うのか
同じ問題は、志位氏が、生産手段の社会化によって生産の目的を「資本のもうけ」から「社会と人間の発展」に変え、「社会的理性が最初から働く計画的な経済運営」が可能になるとする議論にもある。
しかし、医療、教育、住宅、環境、研究、防災、消費、投資など、社会が必要とするものは一つではない。資源と労働力が有限である以上、必ず優先順位と利害の対立が生じる。
市場と価格をどこまで利用するのか。何を社会的計画の対象とするのか。誰が情報を集め、優先順位を決めるのか。地域や企業の自主性をどこまで認めるのか。決定が間違っていた場合、どう修正するのか。
「計画性と市場経済を結合する」という原則は重要である。しかし、それ自体がこれらへの回答になるわけではない。問うべきなのは、どのような結合なら、ソ連型の中央集権にも、市場任せにもならず、生産者と市民の自己決定を実現できるのかということである。
8 「青写真主義をとらない」で、どこまで留保できるのか
党は、未来社会の具体的な形態を現在の段階で固定せず、国民の英知と創意、合意のもとで探究していくとしている。この立場には合理性がある。
ムストも、マルクスが未来社会の「レシピ」を作ることには関心を持たなかったと指摘している。しかし同時に、ムストは、指導者が労働者のために決定する社会主義と、「労働者自身による自らの解放」とを明確に区別している。
つまり、完成した設計図を求めることと、自由や自己統治を実現する制度的条件を問うことは別である。
「生産手段の社会化」によって利潤第一主義から自由になり、「社会的理性」が働き、人間の自由が大きく発展すると現在の段階で主張するのであれば、それらの原則がなぜその結果をもたらしうるのか、権限配分、意思決定、監督、修正の仕組みについて、もう一段の説明が必要である。
そうでなければ、制度の具体像については将来に留保しながら、その制度がもたらす結果については現在の段階でかなり確定的に語るという非対称が生じる。ここが問題なのである。
9 党のガバナンスとのギャップ
さらに、この問題は現在の日本共産党自身のガバナンスとも無関係ではない。党は未来社会では複数政党制を維持し、反対政党の活動、思想・信条の自由を保障するとしている。
しかし、現在の党自身は民主集中制を不可欠な組織原則とし、派閥・分派を認めず、全国方針に反する意見の党外発表にも規律を設けている。指導部の選出も党員による直接選挙ではなく、党大会で中央委員会を選び、その中央委員会が党指導部を選出する仕組みである。
もちろん、任意加入の政党と国家・社会を同一視することはできない。そのことを前提としても、現在の党組織で十分に実現していない多元性、異論の組織化、権力の分散、指導部の交代可能性を、未来社会ではどのような制度によって実現するのか、という問いは残る。
ソ連の経験から学ぶのであれば、理念として自由を掲げるだけでなく、権力集中を防ぐ制度そのものが重要だからである。現在の党ガバナンスと、志位氏が描く「自由な共産主義社会」との間にあるこのギャップについても、説明が必要ではないだろうか。
10 「共産主義と自由」を何が支えるのか
ここで、志位氏が未来社会の核心として強調する「人間の自由」に戻る。
マルクスが未来社会に自由な人間の発展を展望したことと、日本共産党が政治的自由を保障すると綱領に明記していることは確認できる。しかし、それによって、未来社会で実際に自由が発展することまで証明されたわけではない。
ムスト自身も、現在のベネズエラについて「自由なき社会主義」が若い世代を社会主義から遠ざけていると指摘し、「自由がないところで社会主義を論じるのは難しい」と述べている。
20世紀には、社会主義を掲げ、私的資本を大規模に廃止し、社会保障を発展させながら、政治的・経済的決定権を集中させた社会が現実に生まれた。
その経験を経た21世紀に必要なのは、「マルクスは自由を展望した」という説明だけではなく、自由を失わせない制度がどのように成立するのかという説明である。マルクスの文章そのものが、その制度の実現可能性を証明するわけではない。
おわりに――問われるのは「説明の到達点」
日本共産党は、未来社会を考えるための重要な原則は示している。しかし、それらの原則が、志位氏の語る「人間の自由で全面的な発展」や「社会的理性が最初から働く」社会へ、どのような制度的経路を通じてつながるのかについては、なお説明すべき問題が残されている。
問題は、説明がないことではない。説明されている原則から、語られている未来社会の結論までの間に、なお大きな空白があることである。
未来社会をマルクスから結論として導くのではなく、20世紀の経験と21世紀の現実から制度と実現可能性を検討し、その過程でマルクスを重要な理論的資源として活用する。その順序こそ必要ではないだろうか。
▇ 補足――ソ連の社会保障と統治の実態
ソ連の社会保障は、単なる宣伝ではなかった。医療、教育、年金、住宅などは憲法上も権利として位置づけられ、実際に広範な制度が整備された。しかし、その制度がどのような統治構造のもとに置かれていたかを見ると、「人民が主人公」であったかどうかは別の問題として浮かび上がる。
労働は「権利」であると同時に「義務」だった
ソ連憲法は労働を権利とすると同時に、働く能力のある市民の義務とも位置づけていた。スターリン期には労働規律が特に厳しく、1940年には無断離職や欠勤が刑事罰の対象となった。この制度は1956年に廃止されたが、その後も「社会的に有用な労働」に参加することを強く求める考え方は残った。
1961年には、定職に就かず「社会的に有用な労働」を忌避しているとされた者を処罰する、いわゆる「社会寄生虫」対策法が制定された。詩人ヨシフ・ブロツキーがこの制度によって処罰された事件は、その代表例である。
生活保障の多くが職場を通じて提供された
ソ連の国営企業は、生産の場であるだけではなかった。住宅、保育所、医療施設、食堂、保養施設など、生活にかかわる多くのサービスを企業が提供していた。
これは、住宅や保育を保障し、とくに女性の就労を支えたという成果を持つ。一方で、雇用と生活保障が同じ組織に結びつくため、勤務先や職位、勤続、労働上の評価が住宅や各種サービスへのアクセスにも影響した。
つまり、福祉が国家や職場から独立した市民社会の制度として存在するのではなく、国家的な生産組織と強く一体化していたのである。
労働組合は国家から独立した対抗組織ではなかった
ソ連にも労働組合は存在した。しかし、資本主義国の労働組合のように、使用者や国家から独立して労働条件を交渉し、必要なら対抗行動をとる組織とは性格が異なっていた。
労働組合は社会保障や福利厚生の運営に大きな役割を果たす一方、生産計画の達成や労働規律の維持にも組み込まれていた。労働者が国家企業に対して独立した組織をつくり、政策変更を迫る制度的余地はきわめて限定されていた。
その矛盾を象徴するのが1962年のノボチェルカッスク事件である。食料価格の上昇や賃金・生産ノルマをめぐって抗議した労働者に治安部隊が発砲し、死者が出た。事件そのものも長く公表されなかった。
平等社会の内部に特権的な配分が存在した
ソ連は社会的平等を掲げていたが、実際の財やサービスへのアクセスは一様ではなかった。
党・国家の上級幹部を中心とするノメンクラトゥーラには、一般市民とは異なる住宅、医療、保養施設、専用商店、ダーチャなどへの優先的なアクセスが存在した。
ここで重要なのは、単純な所得格差だけではない。市場経済では所得や資産の差として現れる不平等が、ソ連ではしばしば、行政上の地位によって希少な財やサービスへのアクセスそのものが異なるという形をとった。
したがって、生産手段の私有を廃止しても、配分を決定する権力が集中すれば、新たな特権構造が生まれうることをソ連の経験は示している。
社会保障の「受益者」と社会の「決定者」は違う
ソ連の社会保障には、無料医療、教育の普及、雇用保障、住宅建設、年金制度などにおいて実質的な成果があった。
しかし、
- 医療を保障されることと、医療政策を決定すること
- 住宅を供給されることと、住宅政策を決定すること
- 雇用を保障されることと、生産計画や労働条件を決定すること
は同じではない。
ソ連の根本的な問題は、国家が生産手段と社会的資源を広範に掌握しながら、その国家を人民が下から民主的に統御する十分な仕組みを形成できなかったことにある。
したがって、ソ連の経験から導かれるのは、「国有化すれば社会主義になる」「社会保障が充実すれば人民が主人公になる」という結論ではない。社会保障を受ける主体であることと、社会を統治する主体であることは別である。
未来社会を考える際にも、問われるべきなのは所有の名称だけではない。誰が決定し、誰が監視し、誰が異議を唱え、誰がその決定を変更できるのかという制度そのものである。
書籍紹介
「ソ連という実験: 国家が管理する民主主義は可能か」 (筑摩選書) 松戸 清裕 (著)
「生産者が主役」とは、具体的に何を意味するのか。本書からこの問いの重さがよく分かる。ソ連も民意の把握や社会との協働を試みた。しかし、国家が社会を「管理しながら参加させる」ことと、社会自身が国家を下から統御することは違う。未来社会を考えるなら、この歴史的経験を避けて通れない。

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