民族・人種・植民地主義とマルクス
執筆者:ケヴィン・B・アンダーソン(Kevin B. Anderson)アメリカの社会学者・政治理論研究者。カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授。マルクスの民族、ナショナリズム、人種、植民地、非西欧社会についての研究で知られる。代表作『周縁のマルクス』では、晩年を含むマルクスの思想が西欧中心的な単線的発展論には収まらないことを論じている。
はじめに
第12章の著者ケヴィン・B.アンダーソンは、マルクスが民族や人種の問題を階級に還元し、西欧の発展経路を普遍的なものと考えていたという従来の理解を問い直す。その主張は、次の4点に整理できる。
- 民族・人種などを階級に単純還元しない。
- 民族的・人種的分裂は支配を支える一方、変革の契機にもなる。
- 奴隷や農民など、周辺の被抑圧者も変革主体となりうる。
- マルクスの歴史観は、単線的な理解から多線的な理解へ発展した。
本稿では、第12章の記述と、アンダーソンの他の文献による補足を区別しながら、その内容を整理する。
1 民族、人種、ジェンダーを階級に還元しない
【第12章の記述から(以下、本章)】
マルクスは、ポーランドの民族解放、米国の奴隷制廃止、アイルランドの解放運動を、階級闘争と相互に作用する問題として論じた。
ポーランドでは、民族独立が民主主義や農業革命、農民解放と結びつけられた。米国では、奴隷制廃止が黒人だけでなく、白人労働者を含む労働運動の成立条件を変えるものとして捉えられた。アイルランドでは、民族解放と英国労働者階級の解放が相互に関係するものとされた。
アンダーソンによれば、マルクスは資本主義の全体性を捉えながら、民族、人種、エスニシティなどの固有の問題を、その内部に位置づけていた。
【第12章外の補足(以下、補足)】
アンダーソンは他の著作で、晩年のマルクスがジェンダー関係や植民地主義についても研究していたと論じている。
そこでは、民族、人種、ジェンダー、植民地主義は、経済や階級の単なる反映ではなく、資本・階級関係と相互に作用する固有の社会関係として扱われていたとされる。
2 民族的・人種的分裂は、なぜ支配を支えるのか
【本章】
マルクスは、民族的・人種的対立を単なる偏見とは捉えず、その物質的・社会的基盤を分析した。
米国南部では、奴隷所有者が、貧しい白人にも将来自分が土地や奴隷を所有できるという期待を与えることで、彼らを奴隷制秩序に組み込んでいた。アンダーソンは、オーガスト・ニムツの解釈を紹介し、ここに後に「虚偽意識」と呼ばれるものの物質的基礎への洞察を見いだしている。
英国では、イングランド人労働者とアイルランド人労働者の間に民族的・宗教的な敵対が育てられた。マルクスは、この分裂が英国の支配階級の権力を維持する「秘訣」になっていると述べた。
しかし、民族や人種は分裂を生むだけではない。アンダーソンによれば、民族的・人種的抑圧に対する闘争は、既存の階級関係を揺るがし、新たな革命的主体性を生み出す可能性も持つ。
3 誰が社会変革の主体となるのか
【本章】
アンダーソンが描くマルクスにおいて、社会変革の主体は、先進資本主義国の産業労働者だけではない。
マルクスは、米国の黒人奴隷による抵抗を重大な歴史的事件として捉えた。また、アイルランド農民を基盤とする民族解放運動が、英国の労働運動を変える可能性を認めた。
マルクスは1869年、それまでの立場を変更し、イングランド労働者階級はアイルランド支配と決別しないかぎり何も成し遂げられず、変革の「梃子」はアイルランドに据えなければならないと述べた。
アンダーソンはこれを、マルクスが、ヨーロッパや北米の最も工業的に発展した国々の外部から革命的運動が始まる可能性を考えるようになったことの予兆と位置づける。
第12章の結論では、黒人奴隷、アイルランド農民、英国に移住したアイルランド人労働者が、新たな革命的主体の例として挙げられている。
【補足】
アンダーソンの他の研究によれば、晩年のマルクスは、ロシア農村共同体を、一定の条件のもとで共産主義的発展と世界的な革命運動の出発点となりうるものとして評価した。
また、インド、アルジェリア、ラテンアメリカ、北米先住民などの共同体、土地所有、植民地支配についても研究していた。
ただし、マルクスがロシア以外のすべての共同体を革命の出発点と明示したわけではない。アンダーソンの主張は、マルクスが社会変革の可能性を西欧の産業労働者だけに限定せず、非西欧の農民共同体や被植民地社会へ研究を広げていたというものである。
4 単線的歴史観から多線的歴史観へ
【本章】
第12章では、「多線的歴史観」という概念自体は体系的に説明されていない。しかし、アイルランドの民族運動が先進資本主義国イングランドの労働運動を動かすという認識には、その重要な契機が示されている。
また、第12章の冒頭では、1870~80年代のマルクスがロシア農村共同体を、資本主義に対抗する世界的反乱の出発点となりうるものとして評価するようになったことにも触れられている。
【補足】
アンダーソンは、『経済学批判要綱』に多線的な歴史理解の輪郭が現れ、それがフランス語版『資本論』、ロシア共同体論、晩年の研究ノートにおいて発展したと論じている。
フランス語版『資本論』では、農民が土地から切り離され、資本主義的私有が成立する歴史的過程が「西ヨーロッパ諸国」に限定された。アンダーソンは、この修正を、すべての社会が西欧と同じ発展経路をたどるという理解からの離脱と捉える。
ロシア農村共同体についても、マルクスは、それが必ず解体され、西欧型資本主義を全面的に通過しなければならないとは考えなかった。西欧の労働運動との結合などを条件として、共同体が共産主義的発展の出発点となる可能性を認めたとされる。
アンダーソンはまた、マルクスが独自の科学的価値を認めたフランス語版の重要な修正が、エンゲルス編集のドイツ語第4版には十分に採用されなかったと指摘する。
さらに、ロシア共同体や晩年の研究ノートの評価についても、マルクスとエンゲルスには重要な相違があったと論じる。その結果、マルクス晩年の複雑で多線的な考察の一部が、後世のマルクス理解では見えにくくなったというのが、アンダーソンの主張である。
おわりに
アンダーソンが描くのは、歴史発展の経路を単一の段階図式に当てはめるのではなく、各社会の具体的な歴史、民族関係、共同体、抵抗運動を研究しながら、複数の可能性を探究したマルクスである。
民族的・人種的分裂は、労働者を支配秩序に組み込む。他方、被抑圧民族、奴隷、農民、移民労働者などの闘争は、既存の階級関係を揺るがし、社会変革の新たな主体を形成する可能性を持つ。
また、社会変革は先進資本主義国から一方向に進むとは限らない。アイルランドの民族運動やロシアの農村共同体のように、周辺地域の運動が中心国の労働運動を刺激し、より広い変革の出発点となる可能性もある。
この多線的なマルクス像は、社会主義への道を固定的な段階として理解する見方を再検討するための重要な材料となる。
追記)日本共産党の理論形成の課題
以下は、アンダーソンのマルクス研究を踏まえ、日本共産党の理論形成と学習体系にどのような検討課題が生じるかを考察するものである。
文献研究の成果は、どの領域に反映されているか
日本共産党の新版『資本論』では、MEGAやマルクスの草稿研究を参照し、恐慌論、再生産論、利潤率低下論、未来社会論などの経済理論と、『資本論』第2・3部を中心とするエンゲルスの編集について再検討が行われている。
これは、従来の版や解釈を固定化せず、新資料に基づいてマルクス理解を更新しようとする重要な成果である。しかし、アンダーソンが重視するのは、それとはやや異なる領域である。
アンダーソンは、民族、人種、エスニシティ、植民地主義、ジェンダー、非西欧の農村共同体などを、マルクスが階級問題の単なる反映や副次的課題としてではなく、階級関係や社会変革と相互に作用する問題として考察していたと論じる。
『マルクス・リバイバル』第12章では、ポーランドの民族解放、米国の奴隷解放、アイルランドの民族運動が、労働者階級の闘争に従属する問題ではなく、その成否に関わる中核的課題として位置づけられている。
また、黒人奴隷、アイルランド農民、移民労働者などが、既存の階級関係を変える新たな主体となる可能性も示されている。
一方、日本共産党の現在の『資本論』学習は、公開されている範囲を見る限り、搾取の仕組み、労働時間、生産力、貧困と格差、本源的蓄積、労働者階級の成長を中心に構成されている。志位和夫氏による講義でも、労働者階級の成長と発展を主軸に社会変革の展望を捉えることが強調されている。
労働者階級を重視すること自体は、アンダーソンの議論と矛盾しない。アンダーソンも資本と階級の分析を放棄しているわけではない。
問題は、労働者階級をあらかじめ存在する均質な主体として捉えるのか、それとも、民族、人種、ジェンダー、移民、植民地支配などによる内部の分裂を抱え、他の被抑圧者の運動との関係を通じて形成される主体として捉えるのか、という点にある。
アンダーソンの視点に立てば、「労働者階級の成長」を主軸に置くだけでは、社会変革の主体形成を十分には説明できない。米国の黒人奴隷の抵抗が白人労働運動の条件を変え、アイルランドの民族運動がイングランド労働者階級を動かしたように、階級そのものが、民族的・人種的抑圧をめぐる闘争を通じて変化し、形成されるからである。
『資本論』の読み直しから綱領の検証へ
アンダーソンの問題提起は、文献解釈にとどまらず、党綱領や近年の未来社会論が描く社会変革の主体と経路にも関係する。
マルクスの多線的歴史観を認めるなら、資本主義の発展によって労働者階級が成長し、その力を基礎として社会主義・共産主義への変革が進むという図式を、あらゆる社会に共通する一般的経路とみなすことはできない。
社会変革は、労働者階級だけを起点として始まるとは限らない。民族解放、反人種差別、ジェンダー平等、移民の権利、植民地主義の克服、共同体の防衛などを求める運動が、既存の階級関係を変え、より広い社会変革を促すこともある。
また、すべての社会が同じ段階を同じ順序で通過するとは限らない。晩年のマルクスによるロシア農村共同体の考察が示すように、それぞれの社会の歴史、制度、共同体、国際関係によって、変革の経路は異なりうる。
この見方を日本社会に適用するなら、マルクスの理論や党綱領から未来社会への一般的な道筋を導き出すだけでは足りない。
日本社会の歴史、国家制度、地域社会、雇用構造、ジェンダー関係、外国人や移民をめぐる問題、市民運動や社会運動の経験を具体的に分析し、現実にどのような主体と運動が社会を変えうるのかを検討する必要がある。
ここで問われるのは、綱領に記された個々の結論が正しいか否かだけではない。綱領が現実を分析し、検証するための理論として扱われているのか、それとも、あらかじめ示された未来像に現実を当てはめる枠組みとして機能していないか、という問題である。
多線的歴史観は、未来社会を否定するものではない。しかし、未来への経路や主体をあらかじめ一つに確定することには慎重でなければならないという視点をもたらす。
理論更新の方法そのものが問われる
日本共産党の新版『資本論』は、MEGAや草稿研究を用いて、エンゲルスの編集を批判的に検証した。このことは、党のマルクス理解が、過去の定式をそのまま維持するだけでなく、新資料によって修正されうることを示している。
そうであれば、同じ方法を、経済理論や編集史だけでなく、より広い領域にも適用する必要がある。
労働者階級以外の多様な被抑圧者や社会運動が変革を開始しうるという認識を、党の政治方針や運動論にどのように反映するのか。アンダーソン、ムスト、ポストン、ウッドなど、異なるマルクス解釈を比較し、党の従来の理解も含めて検証できる理論形成の仕組みが存在するのか。
理論の更新とは、新しい研究成果を注釈や参考文献として付け加えることだけではない。その成果に照らして、従来の歴史観、変革主体論、未来社会論、綱領の前提に修正が必要かどうかを検討することである。
<参照文献>
- 『マルクス・リバイバル』第12章「ナショナリズムとエスニシティ」
- ケヴィン・B・アンダーソン『周縁のマルクス――ナショナリズム、エスニシティ、非西欧社会』
- Kevin B. Anderson, “Marx at 200: Beyond Capital and Class Alone”
- Kevin B. Anderson, “From the ‘Grundrisse’ to ‘Capital’: Multilinear Themes”
- Kevin B. Anderson, “Marx on Communal Villages as Loci of Revolution, in 19th C. Russia & Beyond”
- Kevin B. Anderson, The Late Marx’s Revolutionary Roads: Colonialism, Gender, and Indigenous Communism

