はじめに
日本共産党は、選挙で行われる排除的な宣伝だけでなく、自党への批判、新聞社の社説や記事、党内外からの異論や改革提言についても、「攻撃」「党への攻撃」と表現することがある。そこに共産主義への批判が含まれる場合には、「反共」という評価が加えられることもある。
しかし、そもそも「反共」とは何を意味するのか。「反共」と「反共攻撃」は同じなのか。日本共産党への批判は、共産主義への反対と同じなのか。そして、「批判」と「攻撃」は、どのような基準によって区別されるのだろうか。
本稿では、「反共攻撃」という言葉を直ちに否定するのではなく、その歴史的背景と現在の用法を整理する。そのうえで、政治組織が他者を評価する言葉を用いる際の説明責任と、社会との対話について考えたい。
1.「反共」とは何を意味するのか
「反共」とは、本来、「反共産主義(anti-communism)」の略語である。政治学や思想史では、共産主義という思想、運動、体制に反対する立場を表す一般的な概念として用いられる。
したがって、「共産主義という思想には賛成できない」「市場経済を基本とする社会の方が望ましい」「共産主義社会は実現可能ではないと考える」という立場は、広い意味では反共産主義に含まれる。この意味での反共産主義は、それ自体としては誹謗中傷でも排除でもない。一つの思想的立場である。
これは、「資本主義に反対する」という反資本主義と、論理的には対置される概念である。共産主義者が資本主義を批判することが、それだけで資本主義社会に生きる個人への攻撃を意味しないのと同じように、共産主義に反対することも、それだけで共産主義者への不当な攻撃を意味するわけではない。
「反共」という短い言葉には現在、強い否定的な響きが伴うことがある。しかし、語義の上では、まず共産主義に反対する思想的立場を指す概念である。この点を確認しなければ、「反共攻撃」という言葉の意味も正確には理解できない。
ただし、「反共」という言葉は、日本共産党や共産主義者が作り出した言葉ではない。歴史的には、反共政策、反共同盟、反共運動など、共産主義に対抗する政府、政党、宗教団体、政治運動も、自らの立場を示す言葉として使用してきた。
したがって、「反共」は当初から、攻撃される共産主義者側だけが相手を評価するために用いた言葉ではない。少なくとも冷戦期までは、「反共」を自ら掲げる政治勢力が現実に存在していた。
2.冷戦期の「反共」と「反共攻撃」
しかし、歴史上の反共産主義は、学術的・思想的な反対にとどまらなかった。
冷戦期には、共産主義が国家の安全保障、社会秩序、私有財産、自由主義体制に対する脅威と位置づけられた。その結果、共産主義の理論や政策に対する批判だけでなく、共産党員や左派運動に対する排除、差別、監視、解雇、社会的信用の剝奪などが行われた。
共産党員であることや、共産主義に共感していると疑われること自体が、「危険人物」「国家に忠誠を持たない者」「非国民」といった評価に結びつく場合もあった。
そこでは、次のような性質の異なるものが一体化していた。共産主義理論への批判。共産党の政策への反対。共産党員個人への敵視。事実に基づかない中傷。社会や職場からの排除。政治的権利や市民的自由の制限。
こうした歴史的経験を背景として、日本共産党や共産主義者は、単なる思想的反対を超えた排除や中傷を「反共攻撃」と呼び、批判してきた。
この文脈における「反共攻撃」という言葉には、一定の合理性がある。共産主義への批判を口実として、個人の権利を侵害し、政治参加を妨げ、事実を歪めて社会的に排除する行為は、通常の思想的論争とは異なるからである。
選挙においても、政策や候補者の実績を論じるのではなく、「共産党だから危険だ」「共産党が関われば国が独裁になる」「中国や北朝鮮と同じだ」といった短絡的な印象だけで有権者の恐怖をあおる言説が使われることがある。
内容を検証せず、党名や歴史的イメージだけを利用して支持を失わせようとするなら、それを反共攻撃と評価する余地はある。
したがって、本稿は、反共攻撃が存在しないと主張するものではない。また、日本共産党が不当な中傷や排除に反論する権利を否定するものでもない。問題は、歴史的に形成された「反共攻撃」という概念が、現在、どのような範囲に適用されているのかである。
3.現在、「反共」は誰が使う言葉なのか
冷戦期には、「反共」を自らの政治的立場として掲げる政府、政党、団体が存在した。しかし現在の日本社会では、「私は反共である」と積極的に自己規定する人は、以前ほど多くないように見える。
共産主義に明確に反対する保守政治家も、自らを「反共主義者」と表現するより、「自由民主主義を守る」「市場経済を支持する」「全体主義に反対する」といった言葉で立場を示すことが多い。
つまり、共産主義に反対する人々がいなくなったのではない。「反共」という言葉を自らの名称として使うことが減ったのである。
一方、日本共産党は現在も、「反共攻撃」「反共キャンペーン」「反共宣伝」といった表現を使用している。そのため、現在の日本では「反共」という言葉が、自ら名乗る言葉よりも、共産主義者や日本共産党が他者を評価する言葉として目立つようになっている。
「私は反共である」という自己規定から、「あなたの言動は反共である」という他者評価への比重の移動である。ここには重要な違いがある。自己規定は、自分の思想的立場を自ら説明する行為である。他者評価は、相手の思想、目的、動機、行動を、評価する側が一定の枠組みによって分類する行為である。
したがって、「反共」という言葉を他者に適用する側には、なぜそう評価するのかを説明する責任が生じる。その人は、本当に共産主義という思想そのものに反対しているのか。日本共産党という政党には反対しているが、共産主義一般については別の立場なのか。党の特定の政策や組織運営を批判しているだけなのか。あるいは、事実を歪めて共産党や党員を排除しようとしているのか。
これらを区別しないまま「反共」と評価すれば、「反共」という言葉は、共産主義への反対という本来の意味を超え、「日本共産党に批判的なもの一般」を指す言葉へと拡張されることになる。そのとき、「反共」は「反共産主義」というより、「反日本共産党」という意味に近づいてしまう。
さらに、党の個別方針、幹部の判断、組織運営への異論まで含めるなら、「反日本共産党」ですらなく、「現在の指導部や方針に批判的なもの」という意味にまで広がりかねない。この概念の拡張こそが、評価された側の反発を生む大きな理由である。
4.区別すべき四つの領域
「反共攻撃」という言葉を考えるためには、少なくとも次の四つを区別する必要がある。
1.共産主義という思想への反対
これは反共産主義という思想的立場である。共産主義を理論的に実現不可能だと考えることも、計画経済や生産手段の社会化に反対することも、自由主義や保守主義の立場から共産主義を批判することも、民主主義社会では認められる思想的自由の範囲にある。
共産主義への反対が強いものであっても、それだけで「攻撃」とは言えない。
2.日本共産党という政党への不支持・消極的態度
共産主義という理念には一定の理解を示しながら、日本共産党には投票しない人もいる。逆に、共産主義には懐疑的であっても、日本共産党の地方議員、生活相談、福祉政策、労働政策、平和政策、行政監視などを評価し、選挙で支持する人もいる。
したがって、共産主義への賛否と、一政党としての日本共産党への不支持は必ずしも一致しない。
3.政策、理論、歴史認識、組織運営への批判
旧ソ連評価の変化について説明を求めること。党名変更の是非を議論すること。民主集中制の運用を批判すること。幹部選出の方法を問題にすること。党大会における発言や結語を検証すること。機関紙の報道姿勢や編集方針を批判すること。
これらは、日本共産党の個別の理論、政策、組織運営への批判である。批判者が共産主義そのものを否定しているとは限らない。むしろ、日本共産党の存続、改善、再生を望む立場から行われることもある。
4.虚偽、中傷、差別、排除、威嚇を伴う言動
事実に反する情報を意図的に流布する行為。共産党員であることだけを理由に就職や社会参加から排除する行為。暴力や脅迫によって政治活動を妨害する行為。党員個人の人格や家族を攻撃する行為。政策ではなく恐怖や偏見だけを利用して社会的信用を失わせる行為。この領域には、「反共攻撃」という評価が最も明確に妥当する。
問題は、日本共産党が実際の言論に対応する際、この四つをどこまで明確に区別しているのかである。共産主義への反対、日本共産党への不支持、組織運営への批判、虚偽や中傷を、同じ「反共攻撃」の中に包み込めば、批判の内容を検討するための区別が失われる。
そして、異なるものを一つの敵対概念へ統合することで、党内では分かりやすい説明になっても、党外では「批判をすべて敵視している」という印象を与えることになる。
5.日本共産党綱領との関係
この区別は、外部から日本共産党に求められるだけのものではない。日本共産党自身の綱領的立場からも必要になる。現在の日本共産党は、当面の政治課題で共同するために、国民に共産主義への賛同を求めてはいない。
党綱領が掲げる「統一戦線」の精神、あるいは現実の課題での共同という方針に照らせば、賃金、社会保障、教育、子育て、平和、人権、民主主義、気候危機など、現実の課題で一致する人々との共同を広げる立場をとっているはずである。
この立場に立つならば、「共産主義という理念には賛同できないが、最低賃金引き上げには賛成する」「共産主義社会の実現可能性には疑問があるが、日本共産党議員の生活相談活動は評価する」「党の安全保障政策の一部には反対だが、社会保障政策では協力できる」という人々も、敵ではなく、共同や支持を働きかける対象である。
さらに、「日本共産党の組織運営には問題がある」「民主集中制を見見直すべきだ」「党名変更を検討すべきだ」「旧ソ連評価の変化を、もっと率率直に説明すべきだ」という人も、それだけで共産主義の敵とは言えない。
日本共産党自身が、共産主義への賛同を共同の条件としないのであれば、共産主義に懐疑的な人々を、原則として政治的な敵とみなすことはできないはずである。むしろ、共産主義に反対する人であっても、現実の政治課題で一致し、日本共産党の議員や政策を支持する可能性がある。
そうであるならば、「反共」という言葉を、排除すべき敵対者を指す概念として安易に用いることは、綱領が想定する共同の範囲を自ら狭めることにもなりかねない。反共産主義者であることと、日本共産党の敵であることは同じではない。日本共産党に批判的であることと、日本共産党を破壊しようとすることも同じではない。
党が共産主義への賛同を支持の条件にしていない以上、日本共産党こそ、これらの違いを明確に区別すべきである。
6.「攻撃」は事実ではなく評価である
「反共攻撃」という言葉には、「反共」と「攻撃」という二つの評価が重なっている。「反共」は、相手の思想的立場や動機についての評価である。「攻撃」は、相手の行為の性質についての評価である。したがって、「反共攻撃」という言葉は、単なる事実の記述ではない。
その人は共産主義に敵対している。その言動には日本共産党や共産主義を害する意図がある。その行為は通常の批判ではなく、攻撃である。このような評価を同時に含む言葉である。
もちろん、実際に攻撃と呼ぶべき行為は存在する。暴力、脅迫、虚偽の流布、差別的排除、意図的な人格破壊などは、通常の批判とは明確に異なる。
しかし、「攻撃」という評価を行うならば、少なくとも次の点を説明する必要がある。
どの事実が虚偽なのか。どの表現が中傷に当たるのか。どの行為が権利侵害や排除につながっているのか。相手に党を害する目的があると判断した根拠は何か。批判の内容ではなく、批判者の意図を問題にするのであれば、その意図をどのような事実から認定したのか。
この説明を欠いたまま「攻撃」と呼べば、評価された側は、自分の主張内容を検討される前に、敵対者として分類されたと感じる。「私は批判したのであって、攻撃したのではない」「説明を求めただけなのに、なぜ反共と呼ばれるのか」という反発が生まれるのは自然である。
ある記者会見で、記者が日本共産党幹部に対して、「攻撃と言いますが、それは批判として受け取れないのですか」という趣旨の問いを投げかけたことがあった。
この問いは、単なる感情的な抗議ではない。どのような基準で批判と攻撃を区別しているのか。発言内容を批判として検討する前に、なぜ発言者を攻撃者として位置づけるのか。その説明を求める、極めて理にかなった問いである。
政党には批判に反論する権利がある。しかし、反論することと、批判を攻撃と分類することは同じではない。批判内容が間違っているなら、その誤りを具体的に示せばよい。一面的であるなら、不足している事実を示せばよい。悪意があると判断するなら、その根拠を示す必要がある。「攻撃」という言葉だけでは、批判への反論にはならない。
7.松竹伸幸氏の事例
この問題を考えるうえで、松竹伸幸氏をめぐる一連の問題は象徴的である。松竹氏は、自らの著書や言論活動について、日本共産党を破壊するためではなく、党の再生を願う立場から行った改革提言であると説明してきた。
これに対して日本共産党は、松竹氏の行為を党の規約や組織原則に照らして問題視し、さらに党外から党を攻撃し、組織を攪乱するものと評価した。
ここで本稿が直接論じるのは、除名処分の規約上の当否そのものではない。注目したいのは、同じ行為が、一方からは「党の再生を願う提言」と説明され、他方からは「党への攻撃」「攪乱」と評価されたことである。この評価の隔たりは非常に大きい。
もちろん、発言者が「善意の提言だ」と説明すれば、必ずそのとおりに受け取らなければならないわけではない。組織は、言動の内容、方法、影響を独自に評価できる。
しかし、「攻撃」や「攪乱」という評価を行うのであれば、なぜ改革提言ではなく攻撃と判断したのかを、発言内容に即して説明する必要がある。
どの提案が党の存立を否定していたのか。どの行為が、通常の意見表明や改革要求を超えて組織的攪乱に当たるのか。異論の内容ではなく公表方法を問題にするのであれば、その方法がなぜ攻撃と評価されるのか。
こうした説明が、党外の人々の納得が得られる十分なものでなければ、「改革提言まで攻撃と呼ぶのか」「批判を内容で反論せず、発言者の目的を否定しているのではないか」という疑問が残る。
この事例は、「攻撃」という評価が、発言内容の検討に先立って用いられた場合、社会との認識の隔たりを一層広げることを示している。
8.新聞記事や社説を「攻撃」と呼ぶこと
同様の問題は、新聞社や報道機関に対する日本共産党の応答にも見られる。日本共産党は、自党に批判的な記事、社説、論評に対し、「党への攻撃」「外部からの攻撃」「反共攻撃」といった表現を用いることがある。
新聞記事に事実誤認があるなら、党が反論し、訂正を求めることは当然である。論評が一面的であるなら、見落とされている事実や論理を示せばよい。新聞社の論説も、批判から免れるものではない。
しかし、新聞社が国政政党の政策、組織運営、党内処分、民主主義観を論評すること自体は、民主主義社会における通常の報道・言論活動である。
党の内部処分であっても、その処分が国政政党の組織原則や民主主義観を示すものであれば、社会的な論評の対象になり得る。結社の自由は、結社の内部判断が社会的批判を受けないことを意味しない。党には自主的に組織運営を行う権利があり、新聞社にはその運営を批判する権利がある。
その記事を「攻撃」と評価するのであれば、どの事実が誤っているのか、どの論理が不当なのか、どの表現が中傷に当たるのかを明示する必要がある。記事の結論が党に不利であることや、党の自己説明を受け入れていないことだけでは、攻撃であることの根拠にはならない。
しかも、赤旗の記事や党幹部の発言は、党員だけでなく一般有権者にも読まれる。党には「攻撃」という言葉を使う自由がある。しかし、それを読んだ有権者が、「なぜ普通の新聞批判まで攻撃と呼ぶのか」「党に不利な論評を敵対行為とみなしているのではないか」「内容への反論ではなく、新聞社の動機を問題にしているのではないか」と受け取る可能性にも、想いを馳せる必要がある。
言葉を使う権利があることと、その言葉が政治的に適切であることは別問題である。
9.「外からどう見えるか」という問題提起
この問題を考えるとき、第29回党大会における大山代議員の発言が重要な意味を持つ。大山代議員が問題にしたのは、党内の論理だけではなかった。党の対応が、党外の市民や有権者からどのように見えるのか。その視点から党のあり方を考える必要があるのではないか、という問題提起であった。
これは、外部の評価を無条件に正しいと認めることではない。社会に迎合せよという主張でもない。国民の理解と支持を得ようとする政党である以上、自らの行動が社会にどう見えるかを検証する必要があるという、ごく現実的な問題提起である。
しかし、これに対する田村委員長の結語では、大山氏の問題提起について「主体性がない」との評価が示された。ここでは、問いと答えの平面が異なっている。
大山代議員が問うたのは、「外からどう見えるか」であった。結語が答えたのは、「党員として、党外の評価に左右されず主体的に判断すべきだ」という問題であった。外部の見え方という問いに、内部の主体性、また、党員としての資質、人格という論理で答えたのである。
社会の見方を考慮することと、社会の評価に無条件に従うことは同じではない。外部からの見え方を分析した上で、なお党の判断が正しいと説明することも可能である。したがって、「外からどう見えるか」を問うこと自体を主体性の欠如と評価すれば、問題提起の核心には答えたことにならない。
この構図は、本連載の第Ⅱ部で検討してきた問題全体に通じている。旧ソ連を、社会はなぜ社会主義国と理解してきたのか。共産主義に、なぜ独裁や自由の抑圧を連想するのか。教科書は、なぜソ連を社会主義国として分類するのか。「共産」という党名は、社会に何を伝えているのか。「反共攻撃」という言葉は、党外の市民にどう聞こえるのか。
これらはすべて、党が何を正しいと考えるかという問題であると同時に、党の説明が社会にどのように受け取られるかという問題でもある。
10.内部の論理と外部の見え方
日本共産党の説明には、党内で共有されている歴史認識、綱領、組織原則、規約上の論理がある。その内部論理を無視して党を評価することも適切ではない。しかし、国政政党は、内部で論理が完結する結社ではない。有権者の支持を得て、社会を変えることを目指す政治組織である。
したがって、内部で正しいとされる説明が、党外でも同じように理解されるとは限らないという事実を考慮しなければならない。党内では、「反共攻撃に屈してはならない」という言葉が、歴史的経験を共有する党員の結束を強めるかもしれない。
しかし党外では、「批判を攻撃と呼んでいる」「異論を敵視している」「説明を求める声を反共と決めつけている」と受け止められる可能性がある。
党内では、「外部の評価に振り回されず、主体的に判断する」という言葉が、組織の自律性を守るものとして理解されるかもしれない。
しかし党外では、「社会からどう見えるかを考えようとしない」「外部の批判を聞く姿勢がない」と映る可能性がある。
問題は、どちらか一方が必ず正しいということではない。内部の論理と外部の見え方の間に認識の落差が存在することを、党自身がどこまで自覚しているかである。
11.エコーチェンバーという危険
ここで、エコーチェンバーという問題が生じる。エコーチェンバーとは、単に同じ意見を持つ人々だけが集まることではない。より本質的には、自分たちの言葉や判断が、異なる前提を持つ外部の人々にどのように聞こえるのかを想像できなくなる状態である。いわば、内部でしか通用しない正義の自家中毒である。
党幹部が党内の会議、機関紙、党員からの反応を中心に状況を把握すれば、党内で支持される説明が社会でも説得力を持つように感じやすくなる。党員の側も、党幹部の説明を共有し、批判的な新聞記事や異論を「攻撃」と評価することで、組織内部の認識はさらに強化される。
しかし、その説明に賛同する党員が多いことは、一般有権者にも説得力を持つことを意味しない。第29回党大会における大山代議員への対応について、党内には結語を支持する声が少なからず存在したとしても、党外ではその対応に対して強い批判が生じた。
重要なのは、どちらの人数が多いかだけではない。党内では妥当とされた説明が、なぜ党外では反発を生んだのかを検証することである。その検証をせず、外部の批判そのものを反共攻撃や党への攻撃と理解すれば、党内の認識は自己完結する。
外部の反発は、「党の説明に問題がある可能性」を示す情報ではなく、「攻撃が強まっている証拠」として読み替えられる。その結果、批判が強まるほど内部の確信が強化され、内部の確信が強まるほど外部との距離が広がるという循環が生じる。
これは、支持を広げようとする政党にとって深刻な問題である。
12.支持を広げる可能性を自ら狭めないために
共産主義に懐疑的な人の中にも、日本共産党の議員や政策を支持する人はいる。反共産主義の立場を持つ人であっても、住宅、福祉、賃金、教育、平和、人権などの現実課題で、日本共産党と一致する可能性がある。日本共産党の綱領も、共産主義への賛同を共同の前提としていない。
それにもかかわらず、共産主義への批判を含む意見を広く「反共」と位置づけ、「反共」を党への敵対と結びつけるならば、党は本来協力し得る人々まで遠ざけることになる。
共産主義への反対と、日本共産党への支持は両立し得る。日本共産党への支持と、党の組織運営への批判も両立し得る。党の再生を望むことと、現在の指導部の方針に反対することも両立し得る。この複雑さを認めることが、支持の裾野を広げる前提ではないだろうか。
「共産主義に賛同しない者」と「党の敵」を同一視せず、「党への批判」と「党を破壊する攻撃」を慎重に区別することは、党を弱めることではない。むしろ、異なる思想を持つ人々との共同を可能にし、社会との接点を広げるために必要な姿勢である。
おわりに ―― 重ねて諫言する
「反共攻撃」という言葉には、歴史的な背景がある。共産党員や左派に対する差別、排除、弾圧、虚偽の宣伝が現実に存在した以上、そのような行為を批判する概念は必要である。選挙においても、共産党という名称や歴史的イメージだけを利用し、事実に基づかない恐怖をあおる言説は存在する。
したがって、「反共攻撃」という言葉を一切使うべきではない、というのが本稿の結論ではない。問題は、その適用範囲である。
共産主義という思想への反対。日本共産党という政党への不支持。党の政策、理論、歴史認識、組織運営への批判。党の再生を願う改革提言。新聞社による社説や論評。虚偽、中傷、差別、排除、威嚇。これらを同じ「反共攻撃」という言葉で一括してはならない。
とりわけ、「反共」と「攻撃」は、日本共産党側が相手を評価するために用いる言葉である。したがって、それを用いる日本共産党こそ、何を反共と呼び、何を攻撃と判断するのかを明確に区別し、社会に説明する必要がある。
「攻撃と言いますが、それは批判として受け取れないのですか」という問いは、この説明を求めたものである。批判に賛成せよと言っているのではない。異論を無条件に受け入れよと言っているのでもない。
批判を攻撃と評価するなら、その根拠を具体的に示してほしいという、民主主義社会における当然の問いである。
社会との対話とは、社会に迎合することではない。党の理念や原則を捨てることでもない。
まず、社会がなぜそのように理解し、何に疑問を持ち、党の言葉をどのように受け止めているのかを正確に把握することである。その上で、「私たちはこう考える」と説明する。
外部の見え方を受け止めることと、外部の評価に従属することは違う。外からどう見えるかを検証することは、主体性の放棄ではない。社会を変えようとする政治組織にとって、必要不可欠な自己検証である。
本連載の第Ⅱ部で扱ってきた、旧ソ連、共産主義、教科書、党名、そして反共攻撃という問題は、すべてここに収斂する。党の内部で成立する論理を、社会に向けて繰り返すだけでは、対話にはならない。
内部の論理と外部の見え方の間にある隔たりを認識し、その隔たりを説明によって埋めることが、社会との対話である。そして、その対話を通じてこそ、理念は社会との接点を持ち、支持の可能性を広げることができるのではないだろうか。
次回予告 第7回:『資本論』を学ぶとは何か
次回から「第Ⅲ部 現代においてマルクスをどう読むか」を連載する。ここでは資本論を学ぶ意味を考える。
※本連載の全体像や基本方針は、こちらの案内ページ(共産党研究/連載一覧)をご覧ください。

