共産党研究 第Ⅲ部② 現代においてマルクスをどう読むか
はじめに
日本共産党の志位和夫氏は、マルクスと『資本論』をどのように読んでいるのだろうか。その解釈の特徴は、志位氏のいわゆる「青本」と「赤本」に集約的に表れている。
- 『青本』(「Q&A 共産主義と自由」):共産主義を「人間の自由」が花開く社会として説明する。
- 『赤本』(「Q&A『資本論』がおもしろい」):『資本論』の内容を一般向けに紹介しながら、自由な時間と未来社会を重要な論点として位置付ける。
ここで問題にするのは、志位氏の著作、講演、対談、党の学習方針を通じて、その言説が現実にどのような政治的機能を果たしているかである。
本稿では、「世界でも新しい読み方」という自己評価や、マルチェロ・ムスト氏との対談、米国の民主社会主義者(DSA)への言及が、その解釈をどのように権威づけ、日本共産党の理論への共感と結び付けられているのかを考えたい。
1. 『青本』が示した「人間の自由」
資本主義のもとでは、労働者は生活のために働くことを強いられ、長時間労働や失業への不安にさらされる。これに対し、生産手段が社会化され、生産力が人間のために用いられるようになれば、労働時間を短縮し、各人が自由に使える時間を増やすことができる。その自由な時間を通じて、人間は能力や個性を多面的に発達させられるというのが、志位氏の描く未来社会の中心像である。
この説明には明確な魅力がある。共産主義という言葉に付随する統制や抑圧のイメージに対して、「人間の自由」を正面から掲げることで、旧ソ連型の社会とは異なる社会像を示そうとしているからだ。旧ソ連の評価や、共産主義という言葉をめぐる問題は、これまでの回で検討した。ここで注目したいのは、志位氏がその歴史的な負のイメージを、マルクスの自由時間論によって転換しようとしている点である。
『青本』では、自由な時間、人間の全面的発達、生産手段の社会化、社会全体による生産の管理といった論点が結び付けられ、共産主義は「自由こそ目的」とする社会として提示される。問題は、この未来像が魅力的かどうかだけではない。それがマルクスの著作からどのような手順で導かれ、どこまで確実に言えるものなのかである。
2. 『赤本』は『資本論』の何を選んだのか
『赤本』について、志位氏は「はじめに」で、内容を思い切って絞り、『資本論』の「ごくごくのあらまし」を伝えることに最大限の努力を払ったと述べている。入門書は必ず内容を選択するものであり、すべての論点を扱えないこと自体は欠陥ではない。
検討すべきなのは、限られた内容のなかで何が選ばれ、それによってどのような『資本論』像がつくられているかである。『赤本』では、資本主義のもとでの搾取、利潤第一主義、生産力の発展と労働者の置かれた状態などが説明される。そして、議論はしだいに労働時間、自由な時間、人間の発達、未来社会へと進んでいく。
その結果、『資本論』は、資本主義の運動法則を解明する著作であると同時に、共産主義が人間の自由を実現する社会であることを示す書物として提示される。もちろん、マルクスが自由時間や人間の発達を論じたことは事実である。
問題は、それを『資本論』の中心的な到達点として前面に置き、日本共産党の未来社会論へ直結させる読み方が、どのような解釈上の選択によって成り立っているかである。簡潔化された『赤本』を通じて形成された『資本論』像が適切かどうか、それが問われるのである。
3. 未来社会像が『資本論』の読み方を方向付けていないか
『青本』と『赤本』を重ねて読むと、志位氏の議論には次のような構造が見えてくる。
「共産主義は人間の自由を実現する社会である。その中心は、労働時間を短縮し、自由な時間を増やすことにある。その未来像は、マルクスの『資本論』に根拠を持つ。」
この構造では、『資本論』の分析から未来社会像が順に導かれるというよりも、先に提示された「人間の自由」という政治的・綱領的な結論に即して、『資本論』の記述が選ばれ、再配置されている面があるように思われる。言い換えれば、原典の多面的な分析から結論へ進むというよりも、あらかじめ示された未来社会像を、原典によって根拠づける方向が強いのである。
資本主義の矛盾を分析することと、望ましい未来社会を構想することは関連しているが、両者は同じではない。資本主義の搾取や長時間労働を明らかにしたことから、「生産手段を社会化すれば自由な時間が増大し、人間の全面的発達が実現する」という結論が、そのまま必然的に導かれるわけではない。
『青本』『赤本』の訴求力は、この複雑な移行を「人間の自由」という一貫した物語として示すところにある。その一方で、資本主義の分析と未来社会についての理念的判断との境界は見えにくくなっている。
4. 「世界でも新しい読み方」なのか
志位氏は、「人間の自由」や「自由な時間」を中心に未来社会を読むことについて、「世界でも新しい読み方」「私たちが取り組んでいる新しい読み方」などと説明している。この発言を評価するには、何と比較して「新しい」のかを区別する必要がある。
社会主義を生産力の発展や国家による経済管理を中心に捉えてきた旧ソ連型の理解と比較すれば、「人間の自由」を中心に置くことには新しい意味があるかもしれない。日本共産党自身の従来の説明との比較でも、重点の変化として評価する余地はある。
しかし、世界のマルクス研究の歴史まで含めて新しいという意味であれば、事情は異なる。自由な時間や労働時間の短縮、人間の全面的発達は、近年になって初めて発見された論点ではなく、マルクスの著作をもとに、これまでにも多くの研究者が論じてきたテーマである。したがって、それを研究史上も新しい読み方として示すことには慎重さが必要だ。
問題は、単に表現が正確かどうかではない。既存の研究の蓄積が十分に示されないまま、「私たちの新しい読み方」と語られれば、日本共産党がマルクスのなかから独自に発見した画期的な解釈であるかのような印象を与えかねない。党の従来の社会主義論に対して新しいことと、国際的な研究史のなかで新しいことは、明確に区別されるべきである。
5. ムスト氏との対談は何を示したのか
志位氏は、国際的なマルクス研究者であるマルチェロ・ムスト氏と対談し、マルクスの現代的意義や社会主義の可能性について意見を交わしている。異なる立場の研究者と対話すること自体は重要であり、日本共産党の理論を閉じた党内議論にとどめず、国際的な研究との接点をつくることには積極的な意味がある。
しかし、対談が成立し、いくつかの共通点が確認されたことと、ムスト氏が志位氏のマルクス解釈や日本共産党の綱領全体を承認したことは同じではない。
対談では、資本主義批判、マルクスの現代性、社会主義への関心など、広い意味で共有できる論点が語られた。その一方で、『資本論』の読み方、未来社会についてどこまで確定的に語れるのか、日本共産党の綱領的結論をどう評価するのかといった問題について、全面的な一致が確認されたわけではない。
それにもかかわらず、対談の一部の共通点や好意的な評価だけが強調されれば、国際的研究者が志位氏の理論全体を支持しているかのような受け止めを生む可能性がある。ここで問われるのは、ムスト氏の学術的な評価や国際的な権威が、志位氏の解釈を裏付ける材料としてどのように用いられているかである。
6. DSAとの共通性は何を意味するのか
志位氏は、米国で社会主義への関心が広がっていることや、DSA(民主社会主義者)の関係者が労働時間や自由な時間を重視していることを、自らの主張と重ねて紹介している。海外の若い世代が社会主義に関心を持ち、長時間労働や生活時間の問題を重視していることは、日本社会にとっても参考になる。
しかし、同じ「社会主義」「自由な時間」という言葉を使っていることから、ただちに理論全体の一致を導くことはできない。DSAに関わる人々が何を社会主義と呼び、どのような政策や運動を通じて支持を広げているのかは、日本共産党の綱領や志位氏の未来社会論とは別に検討しなければならない。
米国における社会主義への支持が、そのまま日本共産党の『青本』『赤本』への評価を意味するわけではない。ここでも、部分的な共通性と、理論全体への承認を区別する必要がある。DSAがなぜ社会主義への支持を広げられたのかについては、以後の連載で具体的に検討したい。本稿で問題にしているのは、DSAの存在や社会的影響力が、志位氏の主張に国際的な広がりを与える材料として、どのように紹介されているかである。
7. 国際的な権威から党への支持へ
以上を通じて見えてくるのは、志位氏のマルクス解釈が、書物の解説だけで完結していないことである。その言説は、おおよそ次のような連鎖を形づくっている。
- マルクスは現代にも有効である。
- 日本共産党は、そのマルクスを「人間の自由」という新しい視点から読んでいる。
- その読み方は、国際的な研究者や海外の社会主義運動とも響き合っている。
- したがって、日本共産党の綱領と未来社会論には、現代的かつ国際的な妥当性がある。
そして、この先には、党の理論への確信、著作の普及、学習会への参加、党への共感と支持という政治的な目標が置かれている。
政党が自らの理念を説明し、支持を広げようとすること自体は当然である。また、海外の研究や運動を紹介することも問題ではない。問題は、限定的な共通点が、志位氏の解釈全体の学術的承認へと拡張され、さらに日本共産党の理論的正しさを示す根拠として用いられる場合である。
ムスト氏との対談やDSAへの言及は、それぞれ独立した学術交流、政治運動との接点として評価されるべきであり、日本共産党の未来社会論への国際的な支持と同一視することはできない。志位氏の内心に、そのような意図があると断定することはできないが、『青本』『赤本』の普及が党の学習運動や支持拡大と結び付けられている以上、こうした言説が党の理論を権威づける政治的機能を果たしていることは検討されるべきである。
おわりに
『青本』『赤本』は、難解なマルクスの議論を、「人間の自由」という理解しやすい主題によって結び付けた。その分かりやすさは、両書の大きな特徴であり、訴求力でもある。
しかし、その分かりやすさは、志位氏による論点の選択と構成の上に成り立っている。志位氏の解釈が妥当であるかを判断するには、マルクスの言葉が引用されていることや、海外の研究者と共通点があることだけでは足りない。
その読み方が現代のマルクス研究のなかでどのような位置を占め、何を明らかにし、どの側面を見えにくくしているのかを比較する必要がある。
それについては次回以降の連載で取り上げたい。
次回予告 第9回:白井聡が示す『資本論』への入口 ――資本家批判から資本主義システムの分析へ 白井聡は『資本論』をどのように読んで、どのように紹介しているのか。白井氏の著書『武器としての「資本論」』『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』の2冊を手がかりに考える。

