共産党研究 第Ⅲ部⑤ 現代においてマルクスをどう読むか
はじめに
2025年に邦訳されたマルチェロ・ムスト編『マルクス・リバイバル――キーワードと新解釈』は、資本主義、共産主義、民主主義、政治組織、革命、労働、エコロジー、ジェンダー、国家、戦争、宗教、科学技術など22の重要概念を、各分野の研究者の論考を通じて検討した論集である。
重要なのは、マルクスの正しさを改めて証明することを目的とした本ではないという点である。巻末の「解説」で斎藤幸平と佐々木隆治は、MEGAなどの新資料も利用しながら、マルクス理論の今日的な意義だけでなく、その「欠落や限界」についても再考する試みだと説明している。
本書は一つの統一された「新しいマルクス主義」を提示するものでもない。研究者によって解釈や結論は異なる。共通しているのは、20世紀に形成された固定的なマルクス像やマルクス主義の定式をそのまま前提とせず、新資料、その後の歴史、そして21世紀の現実から、マルクスを改めて研究の対象にしていることである。
本稿では、その中のムスト、ウッド、ポストンの議論を例に考えてみたい。
1 ムスト――「完成されたマルクス」から離れる
編者マルチェロ・ムストが描くマルクスは、完成した理論体系を残した思想家ではない。
マルクスは研究と政治的実践を続けるなかで考えを変化させた。晩年には非西欧社会や共同体、植民地主義などにも研究を広げ、異なる歴史的・地理的条件を一つの発展モデルに当てはめることに慎重になっていった。『資本論』そのものも未完に終わっている。
共産主義についても、ムストは完成された理想社会の設計図としてではなく、「現存の状態を変革する現実の運動」というマルクスの考えを重視する。その中心にあるのは、「自由な人々のアソシエーション」と人間の自由な発達である。
ここから浮かぶのは、マルクスの文章から固定した結論を取り出すのではなく、その思想がどのように形成され、変化したのかを研究する姿勢である。
2 ウッド――民主主義の意味を問い直す
エレン・メイクシンス・ウッドは、マルクスの視点から民主主義そのものを問い直す。
資本主義社会では、普通選挙や市民的自由によって政治的平等が成立していても、経済の領域では資本と市場の支配が続く。労働者は自由で平等な市民でありながら、生活のためには労働力を売らなければならない。
問題は、財界が政治に影響力を持つことだけではない。政治的民主主義が発展しても、経済領域では市場や資本による強制が存続しうるという、資本主義の構造そのものにある。
ウッドの議論は、民主主義を議会や選挙だけの問題とせず、職場や経済活動、人間の生活条件にまで広げて考える必要を提起する。
ここでは、従来の「ブルジョア民主主義批判」を繰り返すのではなく、民主主義という概念そのものが再検討されている。
3 ポストン――資本・労働・時間を問い直す
モイシェ・ポストンは、資本主義批判そのものを読み直す。
資本主義の問題は、資本家が労働者を搾取することだけではない。価値、抽象的労働、労働時間、生産性といった基準が、人々の意思から独立した社会的な強制力として働く。
技術が発達し、少ない労働で多くを生産できるようになっても、それがそのまま自由時間の増加にはつながらない。生産性の向上は新しい競争条件となり、さらに生産性を高めることが求められるからである。
この視点から見ると、社会主義も、生産手段の所有形態を変えるだけで問題が解決するとは限らない。価値や労働時間によって社会関係が媒介される仕組みが残れば、資本主義に固有の社会的強制も残りうる。
ポストンが問い直すのは、「労働の解放」だけでなく、資本主義に固有の労働そのものなのである。
4 「マルクス・リバイバル」が示すもの
ムスト、ウッド、ポストンの結論は同じではない。しかし、そこには共通する研究姿勢がある。
ムストは、完成されたマルクス像と固定的な共産主義像を問い直す。ウッドは、民主主義についての従来の理解を問い直す。ポストンは、資本、労働、社会主義についての伝統的な理解を問い直す。
つまり「マルクス・リバイバル」とは、マルクスの正しさを再確認する運動ではない。マルクスを読み直し、従来のマルクス主義の定式そのものを検証し、現代社会の新しい問題から理論を更新していく試みと見ることができる。
巻末の「解説」が示すように、再検討の対象はマルクスだけではない。その後の左派の理論や運動のあり方そのものも、21世紀の現実のなかで問い直されている。
そこでは当然、異なる解釈や論争も生まれる。それもまた、研究が開かれていることの一つの表れである。
5 日本共産党との比較から見えるもの
日本共産党も、マルクス研究を固定してきたわけではない。新版『資本論』では、新たに利用可能になった草稿やエンゲルスの編集上の問題を検討し、不破哲三らによる研究も積み重ねられてきた。近年、志位和夫が展開している「自由な時間」をめぐる未来社会論も、そうした研究を踏まえたものである。
したがって、違いを「研究するか、しないか」に求めるのは正確ではない。また、志位は2026年のムストとの対談で、とくに共産主義論について日本共産党の見解と「きわめて近い」と述べ、ムストも多くの共通点を認めている。国際的なマルクス研究との対話がないわけでもない。
だからこそ問いたいのは、新しい研究成果をどのように扱うかである。
一度「理論的到達」とされた理解を基礎として、それを継承・発展させていくのか。それとも、国際的な研究や異なる解釈、現実社会の変化によって、その到達自体も再び問い直すのか。
ウッドやポストンの議論は、日本共産党の理念と対立する部分ばかりではない。民主主義の拡張、自由時間の増大、生産を人間の必要に従わせることなど、重なる問題意識も少なくない。
重要なのは、新しい研究との一致点や相違点を確認するだけでなく、それによって既存理論の前提そのものを検証できるかどうかである。
『マルクス・リバイバル』が既存のマルクス理解だけでなく、その後の左派の理論や運動も再検討の対象としていることは、マルクス研究を学問の内部だけの問題にとどめず、現代の政党や社会運動が自らをどう検証するのかという問題にもつながっている。
おわりに
このように、『マルクス・リバイバル』が示しているのは、新しい「正しいマルクス」を確定することではない。新しい資料を読み、その後の歴史を踏まえ、現代資本主義の変化に向き合いながら、マルクスの理論、その後のマルクス主義、さらに左派自身の理論や実践を繰り返し検証することである。
マルクスを継承するとは、その結論を固定的に守ることではなく、マルクスがそうしたように現実社会を研究し、必要ならば従来の理解そのものを問い直していくことではないだろうか。
その意味で「マルクス・リバイバル」が提起している問題は、マルクス解釈だけにとどまらない。理念を掲げる政党や社会運動が、自らの理論と実践をどのように検証し、更新していくのかという問題にもつながっている。
次回予告 第Ⅳ部「理念はどこで形成されるのか」【第12回】KPÖはなぜ支持を広げたのか

参考)マルチェロムストの本

参考)「ポスト資本主義」に関して

「ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える」鈴木 元 (著) かもがわ出版


